北庄内・南庄内・村櫛・和地・伊佐見などの村々は戦後しばらくまでは農業が盛んで、高度な農業技術を学ぶために多くの生徒が引佐農学校(昭和二十三年から引佐高等学校)に通っていた。戦前からこれら五村と引佐郡方面とは教育以外でも多くの交流がなされていた。戦後の新学制で引佐農学校と気賀高等女学校が合併して引佐高等学校となり、これまでの引佐農学校は農業部に、気賀高等女学校は普通部となった。これを受けて前記五村は生徒たちの通学の便を考え、地域のほぼ中間にあたる北庄内村に分校を設置する運動を始めた。この熱意に応えて昭和二十五年四月一日に引佐高等学校北庄内分校が北庄内中学校内に併設された。そして同二十六年十月に舘山寺街道沿い(今の北庄内幼稚園周辺)に新校舎が完成した。この分校は昼間の定時制高校で、立派な農業後継者・農村婦人になるための課程が組まれていた。昭和二十六年度から学校名は引佐農業高等学校となり、同三十年度からは分校名が庄内分校と変わった(図2―18上)。昭和三十一年度は四学年編成で、男子生徒四十八人に対し、女子生徒はその倍の八十三名を数えた。このため被服や調理などのほか、クラブでは華道なども設けて、農家の主婦となるための学習も積んでいた。同三十四年度からは全日制に移行、そして時代の変化により、同三十七年度からは農業科の募集を停止し、普通科を設置した。同三十八年度からは本校に機械科が設けられ、校名が引佐高等学校となった。庄内分校の普通科移行に伴い、浜松の中央部からも通学する生徒が増えたことにより、庄内分校を独立校にしたいとの意見が出始めた。これを受けて浜松市議会は県立高等学校新設並びに分校独立に関する意見書文を昭和四十一年三月二十四日に採択した。こうして引佐高等学校庄内分校は昭和四十二年四月一日に浜松湖東高等学校として独立開校、生徒はこれまでより約四十人増えて四百十九人となった。ただ、より大きな学校にするには拡張の余地がないこと、生徒の半数が市の中央部から通学しているため中央部に近い位置に移転することが求められていた。このため、大人見町(現在地)に広大な敷地を確保、昭和四十四年に校舎が完成し、五月一日に移転した(図2―18下)。この校舎は西遠学区初の鉄筋コンクリート五階建てとなり、話題となった。校訓は「誠実 勤勉 礼節」、文武両道を目指し、西遠学区の中堅校として発展していくことになる。
図2-18-1 引佐農業高校庄内分校(上)と浜松湖東高校(下)