昭和三十二年四月、これまでの浜松農業高等学校が工業課程を併設し、浜松農工高等学校と改称したことは『浜松市史』四で述べた。国や県、浜松の工業化が進展するなか、一時農業科の廃止が検討されたが、地元の市町村や農業関係者の存続への要望・陳情により、農業科(農業機械科)の存続が決定、以後、農業部門の分離・独立運動が高まった。国は昭和三十六年六月に農業基本法を公布、新しい農業への道筋を示したが、農家には生産性の高い自立経営が求められた。このような状況下、農業経営高等学校の設立に向けた運動が同三十七年より始まり、浜松市都田町の県農業センター隣接地に建設することが決定した。そして、昭和三十九年四月一日、静岡県立農業経営高等学校が開校した。校名に浜松がないのは全県から生徒を迎えたいとの願いが込められていた。昭和四十年には文部省から自営者養成農業高等学校に指定された。校舎のほか、各種施設の建設が進み、寄宿舎も完成、昭和四十一年度から全寮制の高校となり、また、将来は農家の主婦として、また、経営にも参画できる人材を育てる生活科が出来た。さらに、四十二年には学校農業協同組合が発足、以後農業経営高校は新しい農業経営者の育成に力を注いでいった。
【浜松城北工業高校 浜松城北工業高等学校 新居高等学校 昼間定時制高校 浜松城南高等学校】
一方、浜松農工高等学校の工業部門を引き継いで昭和三十九年四月一日に新発足したのが浜松城北工業高等学校であった。この年、新入生の機械科(定員)は二百十名、電気科は百三十名であったが、定員より二十名余多い生徒を受け入れた。以後、浜松城北工業高校では機械や電気の実習棟の建設が進み、また、昭和四十七年度には電子科を設置、当時まだあまり知られていなかったコンピュータ教育に乗り出した。
高度経済成長期、浜松では繊維が輸送機械・楽器と並んで三大産業となっていた。多くの織物工場では若年労働者の確保に頭を悩ませていたが、東北や九州方面から中学卒業者を採用するようになった。このような中、愛知・岐阜方面では繊維工場で働く青少年のための昼間定時制高校が誕生して話題となっていた。この頃、浜名郡新居町で大規模な新日本紡績会社を経営していた松井貫之は九州方面の労務状況を視察した結果を昭和三十九年の遠州生産性協議会の会合で発表した。それは、繊維産業で働く中卒者を迎え入れるためには定時制高校が必要であるということであった。そして、この定時制高校は夜間ではなく、繊維工場の二部操業に合わせた昼間二部制(午前組と午後組)の定時制高校とするように提案した。これに対して遠州織物工業協同組合の寺田忠次理事長なども賛意を表し、以後協調して昼間定時制高校の実現を目指して地元や県に対する働き掛けを開始した。九月になると県教委も中卒者を雇用する上では定時制高校で勉強させるという条件が不可欠と認め、雇用対策上取らざるを得ない教育施策と位置付けた。同年十二月二十五日、昭和四十年度の高校入学者の募集定員が発表された。それによると浜松城北工業高等学校と新居高等学校に昼間定時制の課程が設けられ、定員は両校とも八十名であった。午前の授業を受ける者と午後の授業を受ける者と二組(二学級)に分かれ、一週間おきに交代して、勤務時間の実態に合わせて学ぶというものであった。こうして、昭和四十年四月一日、県下で初めての昼間定時制高校が浜松城北工業高校と新居高校に開設された。この二校の一学期が終わりに近づいた七月二十日、『中日新聞』の「遠州中日」は「意外に少ない脱落者 浜松城北 新居両高 昼間定時制その後」と題する記事を掲載した。ただ、問題点として時間的な余裕の少なさ、経済的な負担の軽減などを訴えていた。昭和四十二年度、浜松城北工業高校の昼間定時制課程は百四十七名の新入生を迎えるまでになり独立高校へ昇格する運動が開始された。そして昭和四十三年四月、これまでの浜松城北工業高校昼間定時制課程は静岡県立浜松城南高等学校となった。校舎は三和町の東部中学校飯田教場跡地に決まり、鉄筋コンクリート建ての新校舎が完成したのは昭和四十五年七月であった。この高校の一つの特色は同校の父母と教師の会の略称をPTAとせず、ETAとしたことである。これは、生徒の父母の多くは遠隔地に住んでおり、雇用主(EMPLOYER)の果たす役割が大きかったからである。この雇用主の理解と協力がなくしては昼間定時制の教育は成り立たないのである。多くの雇用主はマイクロバスや大型バスを購入し、生徒の送迎に当たった(『新編史料編六』口絵42)り、ETAの会費を負担するなどして援助を惜しまなかった。こうした中にあっても労働と学習の両立は難しかったようで、その実態が浜松城南高等学校の閉校記念誌『未来はてなき青春像』に次のように記されている。
早番が来れば4時半に起床し、身を切る様な寒さにも歯を食いしばり、眠い目をこすりながら職場へと足を運び、5時から1時45分まで45分間の食事休憩を除いて8時間汗とホコリにまみれ働く。終業ベルと共に昼食をかき込み、制服を身にまとい、学生である自分を見い出し車に乗る。疲れたという事よりも学ばねばならないと思い授業に身を投じる。下校するなり洗濯、風呂と用事を済ませようやくここで自由時間を得る。そして9時消灯。この生活が1週間そして後番に入る。7時に起床して午前中は学校に行き、1時45分から夜の10時半まで作業、12時半消灯。
一方、併設の新居高校では、夜間課程や全日制の生徒との交流、家庭通信の発行、生徒の母校への8ミリ映画送付など昼間定時制ならではの配慮がなされていた。この二校に続いて昭和四十二年四月一日、同じく繊維産業の盛んな磐田市の磐田南高等学校に繊維産業従業員のための昼間定時制課程が誕生した。
昭和四十一年三月の浜松市議会では県立高校の新設意見書が採択された。この意見書採択の前に鈴木進午議員が市内の中学生の進学の現況として次のようなことを述べている。
県西部の中学生の進学率は東部や中部に比べて低く、国の平均値も下回る低進学率となっている。これは経済的に困窮した家庭が多いのではなく、高等学校の数が不足しているからで、高校進学を希望する生徒は市外や県外の高校への通学を余儀なくされている。浜松から最も多くの生徒が進学しているのは浜名高校で約六百三十名、次いで磐田東高校の約五百三十名、そのほか県外には約百八十名が行っている。これら遠隔地の高校に通学しなくても済むように県立高校を設置したい。また、進学のための補習教育が激烈なため、生徒の体力は全国・県の最下部に属している。
【浜松東高校 ブレザー】
これらの意見を踏まえて浜松市は新たな県立高校設置に向けて動き始めた。設置場所は市内で高校が最も空白となっていた東部地区、市は昭和四十二年までに笠井新田町に浜松東高校(仮称)の用地の買収を済ませていた。ただ、問題は高校一校の新設には三億円近い巨費が必要で、県当局・議会との調整が難航、ようやく昭和四十五年になって用地をほぼ正方形にするための校地の整形交渉が妥結、同年十一月になって、学校名は浜松東高等学校、課程は生産管理を主体とした商業科、開校は昭和四十六年四月、規模は一学年七学級(一学級は四十五人)、用地は浜松市が県に無償提供することなどが決まった。昭和四十六年四月一日に開校した静岡県立浜松東高等学校は近代的な経営感覚を持った商業人の育成を目指し、県下で初めての生産管理科、商業デザインコースを含む営業科、そして公立高校では全国初の秘書科が置かれ、三百二十一人(七学級)が入学した。これまでの商業高校にはない専門的な分野の課程が設けられ、新しい時代に必要とされる人材の育成が始まった。浜松東高校の開校で市民の注目を集めたものの一つが生徒の制服であった。県下初のブレザー型を採用、男子は濃紺のブレザーコートに淡紺のネクタイ、女子はグレーのスーツにえんじ色のネクタイであった。これ以後、このブレザー型の制服が幾つかの高校で採用されるようになっていった(図2―19)。
図2-19 浜松東高校の制服
【浜松工業高等学校】
浜松工業高等学校は昭和三十年代の後半には「旧式なボロ校舎 猫の額ほどの運動場…」という状況になっていた。昭和三十七年四月に着任した佐藤盛一校長は全面移転の方針を立て、同十月には富塚町(今の弥生団地周辺)への移転を内定したが、平山市長の「初生地区を文教地区にしたい」という意向を受け、現在地の初生町に決定した。三万坪の広大な校地に校舎、実習棟、野球場、四百メートルトラックなど、当時としてはあまりの広さに人々は驚きの目を見張った。昭和三十九年五月より北寺島町の校舎から順次移転を始め、同十二月までに全員の移転を完了した。なお、高校生の急増期にも当たっていたことから、同年四月の全日制の新入生は五百二十六名、定時制は百九十八名を数え、全校では全日制千四百名、定時制六百名を数えるまでになった。
高度経済成長期に入った昭和三十八年には、木材工芸科を工業デザイン科に、紡織科を繊維機械科と改称、同四十年には定時制課程に建設科を、そして同四十八年には情報技術科を設置し、時代の要請に応えた(浜松工業高等学校『わが学び舎わが師わが友』)。
【完全給食】
なお、昭和四十一年には二階建てのマンモス体育館が完成したが、階下は大食堂(図2―20)となり、昭和四十三年一月から全日制、定時制、教職員そろって県下の高校では初めての完全給食が実施された。これを報じた新聞には「午後零時四十分過ぎ、午前中の授業が終わると、おなかをすかした生徒たちが〝きょうの献立ては何かな〟とばかり食堂にかけつけ六百人収容の食堂もみるみるうちに満員。」と出ている(『静岡新聞』昭和四十三年一月二十七日付)。
図2-20 浜松工業高校の食堂