[看護婦養成高校の誕生]

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【聖隷准看護学園 聖隷学園高等学校】
 福原達三が昭和二十四年に聖隷保養農園内に遠州基督学園をつくったが二年後に学園を去ると、長谷川保はこの学園を看護婦の養成所にすることを決め、昭和二十七年四月に聖隷准看護婦養成所を開校した。これは、前年に保健婦助産婦看護婦法の改正があり、これまでの甲種看護婦、乙種看護婦を廃止して看護婦、准看護婦としたこと、また、同法に基づいて看護婦学校や養成所規則が制定されたことによる。同三十四年には聖隷准看護学園と改称した。全国的に看護婦不足が叫ばれ始めたのは昭和三十年代半ば、これを受けて全国初の衛生看護科単独校の神奈川県立二俣川高等学校が昭和三十九年に開校した。これに続いて静岡県では翌四十年に沼津市立沼津高等学校に衛生看護科が誕生した。長谷川は高校進学率の増加とこれらの高校を参考に昭和四十一年四月に聖隷学園高等学校を設立、課程は衛生看護科、私立高校としては全国初の衛生看護科の単独校であった。衛生看護科とはいえ、高等学校ゆえ全課程百九単位のうち看護関係は四十五単位であった。この学校を卒業すると、高卒の資格と准看護婦、養護助教諭の受験資格を取得することが出来た。同校には全日制と定時制の課程があった。『聖隷学園 二十年の歩みと展望』によれば、第一回の卒業生のうち、准看護婦としての就職二十九名(うち聖隷病院二十四名)、短大入学二十七名(うち聖隷学園浜松衛生短期大学二十六名)、高等看護学院一名、一般就職二名と記されている。
 
【浜松市立高等学校 衛生看護科】
 なお、聖隷学園高校開校の年、県立の清水西と掛川東の両高校にも衛生看護科が誕生している。このような状況下にあっても看護婦不足は深刻で、『広報はままつ』あすへの窓(昭和四十七年一月二十日号)には「いま全国で約六万人、県内では千六百人の看護婦が不足しているといわれています。そして、医療需要の増大に伴って看護婦不足はますます深刻化していくことが予想されます。このような中で、浜松市でもことしの四月から市立高校に衛生看護科を新しく設け、看護婦の育成にのりだすことになりました。」との報道がなされた。こうして昭和四十七年四月一日、浜松市立高等学校に衛生看護科(定員四十名)が設けられた。この看護科初の戴帽式は、第一回生が課程の半分となった同四十八年九月二十七日に行われた。浜松市立高等学校『80周年記念誌 昔と今』によると、県西部浜松医療センターの所長や総婦長を迎え、学校長から看護帽をいただき四十名の豆看護婦さんが誕生したとある。この後、「ナイチンゲール誓詞」を斉唱している。なお、浜松市は同校の衛生看護科の生徒に奨学金を貸与するなど、看護婦の養成に力を尽くしていった。この浜松市立高校衛生看護科の発足は浜松医科大学の浜松誘致に大きな役割を果たすことになった。