[新時代に対応する高校]

122 ~ 124 / 1229ページ
【西遠女子学園高校 生活会館】
 昭和三十年代中頃から市内の各高校ではこれまでの木造校舎を鉄筋コンクリートの三・四階建ての校舎に順次建て替えるようになり、内部設備も新しくなっていった。また、多くの学校で体育館兼講堂の建設も進んだ。西遠女子学園高校では昭和三十八年に生活会館ができ、作法や宿泊訓練など規則正しい団体生活を体験できるようになった。また、幾つかの学校で昭和二十年代中頃から始まった夏山登山は同三十年代に入って多くの高校で実施されるようになり、富士山、白樺湖、上高地、白馬岳、立山など各方面に出掛けるようになった。昭和四十年代には御殿場の国立青年の家で集団訓練を行う学校も出てきた。
 昭和三十五年、文部省は高等学校の新しい学習指導要領を告示、同三十八年度の一年生から学年進行で実施されていった。生徒の能力や適性、進路などに応じた教育を重視し、基礎学力の向上、倫理・社会の科目新設、専門科目の充実などが行われ、市内の高校ではその実施のために様々な努力がなされた。
 
【NHK学園高等学校】
 昭和三十八年四月、NHKのラジオ・テレビを使っての広域通信制高校としてNHK学園高等学校が開校した。この高校ではラジオ・テレビの視聴以外に、地方の高校で行うスクーリング授業に出席することが求められた。これに名乗りを挙げたのが信愛学園高校で、同三十九年四月にNHK学園高等学校信愛協力校として開校した。日曜日になると授業に出席することはもちろん、体育祭などいろいろな行事にも参加して働きながら〝高校生活〟を送った人々が大勢いたことを忘れてはならない。
 
【信愛学園高校 音楽科】
 昭和三十年代の後半、信愛学園高校は音楽高校の設立に動き出した。同校の設立募金趣意書には浜松は「〝楽器生産の都〟であるばかりでなく、〝音楽文化の都〟であるために音楽の教育機関が欲しいと思います。小、中学校は義務教育であり特に音楽を主とした教育は出来ませんので私達は高等学校の課程の中において専門的な音楽教育を行い、浜松の音楽文化のセンターとして育成し…」と記され、信愛学園音楽高等学校の設立を目指した。独立した音楽高校とはならなかったが、信愛学園高等学校音楽科が誕生し、男子一名、女子十四名でスタートを切ったのは昭和四十年四月一日のことであった。同校の音楽科は順調に発展し、音楽大学を志す生徒に注目されるようになり、また、全国的に有名な演奏家や歌手を輩出するまでになっていった(信愛学園高等学校『八十五年のあゆみ』)。
 
【浜松商業高校 浜松海の星高校】
 実業高校のうち、浜松商業高校では昭和四十三年度から貿易科を新設、同四十六年度から商業科を経理科と事務管理科に分け、同四十八年度には事務管理科を情報処理科とした。浜松工業高校では昭和四十八年に電気科を一学級減らし、代わりに情報技術科を新設、小型電子計算機による実習を開始、コンピュータ時代に対応できる生徒の育成に取り組み始めた。浜松海の星高校が英語コースを新設したのは昭和四十八年度、英語の授業を一週間に十―十一時間も取り、外国人教師による英会話の時間も取り入れた。同校では昭和三十八年から留学制度を発足させ、イギリスやフランスに留学生を送ることにした。AFS(アメリカンフィールドサービス)の交換留学制度で日本人の高校生が横浜港から氷川丸でアメリカに向かったのは昭和二十九年であった。この制度によって同三十一年に浜松北高校の中村光樹がアメリカに旅立った。これからしばらく後の昭和四十年代の後半からはロータリークラブの斡旋による交換留学が各校で始まり、海外研修や外国人生徒の受け入れが始まるようになった。