【着帽の自由化 長髪の自由化】
昭和四十年代の中頃になると、大学紛争やベトナム反戦、安保粉砕などの動きが一部の高校生の間にも広がり始めた。浜松でもこのような運動に参加し、逮捕された生徒も出たが、『浜松北高百年史』の昭和四十四年の年表には「この年学校内外の問題に意識高く時に行動あり」と出ている。当時の学校新聞には授業や高校生活への疑問や批判の記事が目立つようになった。その多くは「現状打破」、「改善へ不断の努力を」などというもので、例を挙げると、授業改善、卒業式や学校祭のあり方、制服・制帽、頭髪などであった。学校によっては生徒会が校長や職員、保護者と交渉を持って問題の解決を図ろうとする動きも出てきた。生徒の頭髪は昭和三十年代中頃から上級生から次第に長髪となり、学校側も長髪は清潔さと端正さを保つことを条件に認めるようになった。制帽の着用は多くの学校で生徒規則で決められていたが、これも同三十年代後半から無帽で登下校する生徒が出始め、着帽の自由化を求める生徒との間で対立が続いた。四十年代の中頃になって多くの学校は一部の場合を除いて無帽も容認し始めたが、この長髪と無帽は同時進行していたようだ。浜松工業高校全日制生徒の許可による長髪の自由化が認められたのは昭和四十六年九月一日、同じく着帽の自由化は同四十九年十月一日であった(浜松工業高校『わが学び舎わが師わが友』)。ただ、市内には昭和四十九年になっても長髪を認めない高校があり、同年十一月に生徒が長髪の自由を求めて学校の部室に放火するといった悲劇も生まれた。生徒たちはこのほか、受け身の卒業式からの脱却を目指し、多すぎる祝辞の制限、形式的な送辞や答辞の改善、また、掲示や印刷物配付の自由化、学校祭での催事の自由化などを学校側に求めるべく様々な運動を起こした。