【甲子園出場】
スポーツの分野において最も注目を浴びるのが高校野球での甲子園出場である。浜松商業高校は県下においては野球の名門校、この時期、昭和三十六年夏、同三十九年春、同四十二年夏の三回出場している。三十六年夏の大会では大会屈指の投手といわれた浪商の尾崎行雄に多くの三振を取られながらも敢闘し、惜しくも0―1で敗れたが、浪商がこの大会で全国優勝を果たしたことを考えると、浜商の実力の程が分かる。なお、尾崎は高校三年を前に退学してプロ野球の東映に入団、わずか十七歳で二十勝を挙げて新人王に輝いた名投手であった。後の二試合は延長で惜敗した。浜松工業高校は昭和四十三年春に、浜松北高校は同四十四年春にそれぞれ甲子園に出場したが惜敗、校歌を聞くことは出来なかった。
【アーチェリー 卓球 陸上競技】
昭和三十五年、浜松の日本楽器製造(株)では川上源一社長の指示の下、FRP(ガラス繊維強化プラスチック)製の洋弓(アーチェリー)の開発に乗り出し、翌年に製造・販売を開始した。川上は洋弓を自らも行い、昭和三十四年には日本アーチェリー協会の会長に就任していた。同四十年代に入ると全国の大学や高校などにアーチェリーの普及活動を展開、浜松は日本楽器の地元ということもあり、市内のいくつかの高校に洋弓部ができ始めた。そして、興誠高校のアーチェリー部は昭和四十二年頃から実力をつけ始め、同四十三年八月、第一回全日本高校アーチェリー大会男子団体で第一位、個人でも第一位となった。これに続いて浜松工業高校は同四十六年に男子団体で、浜松北高校は同四十七年に女子団体で全国優勝を果たした。この時期、誠心高校は卓球で、西遠女子学園高校は陸上競技で全国的に活躍した。また、浜松西高校陸上部の活躍は目覚ましく、特に昭和三十八年には石川準司が百メートルで十秒台の記録を出すほどに成長、全国高校総体と国体の二冠に輝き、翌年の東京オリンピックの四百メートルリレーの選手にエントリーされるまでになった。同校陸上部の活躍はその後も続き、昭和四十一年の高校総体では男子四百メートルリレーで、同四十三年には同じ大会の男子千六百メートルリレーで見事な高校新記録で全国優勝を飾るなど、陸上部は黄金時代を迎えた。これらは二十年余にわたって陸上部を指導した伊藤久雄の賜物でもあった。また、昭和四十六年の全国総体に出場した浜松女子商業高校の内山裕美子は走り高跳びで大会新記録で優勝するなど、同校の陸上部の活躍も目立った。