経済の高度成長と産業界の技術革新の進行により、静岡大学工学部はこれらに対応して様々な取り組みを行った。日本の石油化学分野での研究や開発は昭和三十年代に入って活発となり、その製品として身近な合成繊維や合成洗剤などが出回り始めた。日本各地に石油化学コンビナートの建設が始まり、この分野での研究者や技術者が求められるようになった。これに応えて静岡大学工学部に合成化学科が設けられたのは昭和三十七年四月であった。県内の企業や団体、市役所などに電子計算機が導入されたのは昭和三十九年頃から、浜松の主な企業では四十年代初めから中頃にかけて導入されていく。昭和三十九年四月には静岡大学の全学共同利用の電子計算機の試運転が工学部で行われた。そして七月の電子計算機室竣工式の時の学長の挨拶が『大学の歴史 静岡大学工学部』に「…これまで優秀な頭脳をもって数十日を要した計算が、わずか数分で解決できるようになったので、その精力を他の研究面で有効に活用願いたい…」と出ている。
【静岡大学工学部附置電子工学研究所 高柳記念館】
静岡大学工学部附属電子工学研究施設は戦前の建物で、老朽化が進み、工学部から離れた位置にあった。この研究施設を工学部内に移転させ、昭和四十年四月一日に静岡大学工学部附置電子工学研究所が正門脇に鉄筋コンクリート四階建てで完成した。初代所長にはこれまでテレビの研究に尽力してきた堀井隆が就任、テレビや光電関係、半導体など先端技術の研究や開発に取り組んだ。この頃の工学部のキャンパスは図2―22のようであった。電子計算機の普及が始まった昭和四十六年四月には情報システムの技術者養成を目的に情報工学科が設置された。その他、広大な工学部の構内には髙栁健次郎の功績をたたえ、関連する機械・機器を展示する高柳記念館が昭和三十六年十月に、同四十二年には五十メートルプールが、同四十七年四月には創立五十周年記念(浜松高等工業学校の創立)として静岡大学附属図書館浜松分館がそれぞれ設置され、風格ある大学となった。また、工学部からやや離れた位置(蜆塚町)に静大初の鉄筋コンクリート四階建てのあかつき寮が昭和四十一年三月に完成した。なお、浜松高等工業学校、浜松工業専門学校、静岡大学工学部の卒業生は浜松工業会と名付けた同窓会を組織して活発な活動を続け、同窓生の親睦だけでなく、大学の多くの施設の建設や機関誌「佐鳴」の発行など、幅広い活動を行っている。『静岡大学工学部五十年史』の「卒業生の社会活動」の項目を見ると、昭和四十年代半ばまでに一万四千有余の優れた技術者を輩出し、産業界・官界・学界に多大な業績を残し、活躍を続けていると記され、多くの人たちが紹介されている。本田技研工業(株)初代社長の本田宗一郎はこの学校の聴講生、二代(河島喜好)・三代(久米是志(ただし))の社長は卒業生、鈴木自動車工業(株)(今のスズキ(株))の二代(鈴木俊三)・三代(鈴木實治郎)社長、浜松テレビ(今の浜松ホトニクス(株))の初代(堀内平八郎)、二代(晝馬輝夫)社長、遠州製作(今のエンシュウ(株))の三代(阪本藤右衛門)社長ほか、浜松の多くの企業に卒業生が活躍し、戦後浜松の工業の発展に多大な貢献をしている。
図2-22 昭和40年頃の静岡大学工学部