[静岡大学教育学部浜松分校の廃止と教養部の開設]

129 ~ 131 / 1229ページ
【浜松分校の廃止 静岡大学教養部西部教場】
 戦後に出来た地方の国立大学はそれ以前の大学と比較して規模や設備が貧弱で、世間では〝駅弁大学〟とか、キャンパスが離れた位置に分散していたので〝タコ足大学〟と揶揄(やゆ)されていた。このタコ足大学は多くの面で大学の発展を妨げ、学生も不便を強いられていた。静岡大学の場合は教育学部が静岡にあるほか、教場と分校が三島・島田・浜松の三カ所に分散しており、その統合が課題となっていた。地元では廃止反対の動きがあったものの、昭和二十七年三月限りで三島教場を廃止、昭和三十年三月限りで島田分校を廃止した。廃止反対の人たちへの配慮として、静岡県は三島教場の跡地には県立の臨時教員養成所(後の教育研修所)を開設、島田分校の跡地には市内の中心部にあった附属島田中学校を移転開校させる措置を取った。静岡大学教育学部浜松分校は大正四年に浜松師範学校として開校した伝統があり、この廃止に際しては、地元の浜松市は周辺市町村と一体となって強力な反対運動を展開した。また、工学部と磐田市にある農学部の一・二年生の教養課程も静岡に統合されると県西部の高等教育機関が弱体化、そして附属浜松小・中学校の廃止にもつながるとして西部地区全体でこれに対処することになった。そして、高校側からも昭和四十一年度が大学進学のピークとなることから、この時期までに問題の解決を図るべきとの意見が強く出てきた。昭和三十九年になって静岡大学は移転・統合計画を発表し、浜松分校の廃止が決まった。大学生の急増期に関して県内では、静岡女子短期大学の四年制への昇格、浜松分校の跡地には県立の浜松女子短期大学の設置、私学の短大開設の動きなどが出てきた。その後、浜松では浜松分校廃止反対運動が続く一方、県はその跡地に県立女子短大の設置を考えるに至った。これらは渡辺静岡大学長、斉藤静岡県知事、平山浜松市長などの折衝により決められたようで、昭和四十年三月になると、同四十一年四月に県立女子短大の浜松開校が決まった。一方、静岡大学は昭和四十年三月限りで廃止した浜松分校の校舎に、四月に教養部西部教場を設置し、工学部・農学部の教養課程の授業を始め、校舎から学生の姿が消え去ることは避けられ、附属浜松小・中学校の存続も決まった。
 女子短大開校寸前の昭和四十一年二月五日号の『広報はままつ』は「…教育学部廃止に見合う教育施設として、県立の女子短期大学を誘致することにきめ、これまで県へつよく働きかけてきた結果四十一年度から名残町の教育学部あと(現静大教養部西部教場)へ静岡市北安東にある県立静岡女子短大が浜松教場を開設、近い将来県立浜松女子短期大学として独立することになったものです。これまで県西部には女子の大学教育機関がなく、進学者は東京・名古屋・静岡方面にまでいかなければならず、経済的な負担から進学を断念する人もかなりありましたが、女子短大の開設でこの悩みは大幅に解消し、同時に新しい時代をになう女性の育成に大きな期待がよせられるわけです。」と記している。また、同短期大学は入試競争率は高く、就職率は百%と報じている。
 
【静岡女子短期大学浜松教場】
 こうして、昭和四十一年四月十二日、静岡県立静岡女子短期大学浜松教場が静岡大学教養部に同居する形で開学、学科は文科(英文専攻、国文専攻)、入学者は各専攻とも三十七人でスタートした。静岡にあった静岡女子短期大学は同四十二年に四年制の静岡女子大学として静岡市谷田へ移転して開校したため、同四十三年四月からは静岡女子短期大学は浜松に設置位置を変更し、晴れて独立した短大となった。ただ、校名は浜松市民が望んだ浜松女子短期大学ではなく、これまで通りの静岡女子短期大学となった。同居先の静岡大学教養部西部教場が昭和四十三年三月限りで廃止されたため、四月からは静岡女子短大のみの校舎となり、以後同四十六年に食物栄養学科を設置した。設立当初は「…日本一小さい学校で、教師と学生の比率が一対五位で、その点昨今のマスプロ教育によって危機を叫ばれている時代に珍しい楽園‥」(『静岡女子短期大学三十年誌』)で、静岡時代とは違った新しい学風が育ち、また、地元の要望にも応えた教育が展開されていった。