[盲学校と聾学校]

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【浜松盲学校 浜松聾学校】
 浜松盲学校と浜松聾学校が義務化され、県立学校に移管されたことは『浜松市史』四で述べた。浜松盲学校は昭和三十九年に広大な三方原台地の葵町(今の中区葵西五丁目)に移転、当時は日本一の盲学校とさえ言われたほどの近代的な校舎であった。翌年には体育館が竣工、続いて昭和四十六年には高等部専攻科理療科第二部を設置、より専門的な職業人(鍼(はり)、あんまなど)の養成に努めた。昭和四十八年になると沼津・静岡の盲学校の高等部が浜松盲学校に統合され、この年に大きな寄宿舎も完成した。この学校では校内の研究誌『潮路』が昭和三十六年以降毎年発行されており、先人たちの苦闘による盲教育の進展の様子をうかがうことが出来る(静岡県立浜松盲学校『創立六十周年記念』・『潮路』)。浜松聾学校は幸町に移転後、校舎や寄宿舎、給食室を増築するとともに、職業教育の場としての木工室なども建設した。教育方法は昭和二十八年からこれまでの手話による教育から口話による教育となり、先生や生徒の苦労は並大抵ではなかった。発語や読話、そして新しい聴能教育、被服や木工の授業など、幼稚部での基礎能力の養成から、高等部の自活できる社会人の養成まで多くの新しい聾教育がなされていった。また、県下や関東地方の多くの学校対抗で行われる野球、バレーボール、卓球などのクラブ活動では良い成績を収めた(静岡県立浜松聾学校『二十年記念誌』)。