養護学校

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【特殊学級 浜松療護園 静岡養護学校西部分校 西部養護学校 浜松市心身障害児訓練センター】
 昭和二十二年三月に施行された学校教育法で、養護学校は精神薄弱者、肢体不自由児、病弱者などを教育することが定められたが、その設置は進まなかった。昭和三十年代には養護学校の整備に関する法律も出来たが、県の積極的な動きはなかった。こうした中、浜松市が肢体不自由児の特殊学級を県下に先駆けて佐藤小学校に開設したのは昭和三十六年四月十五日のことであった。当時市内には肢体不自由児が二百人から三百人いると言われ、この子たちの一刻も早い教育が望まれていた。この学級は特に身体不自由児親の会が中心となって開設を働き掛けたようで、佐藤小学校で二学級減になったことを機会に開設されることになった。この特殊学級の様子を昭和三十六年十一月十三日付の『静岡新聞』は「半年間で歩けるように」などの見出しで、歩行訓練や文字の書き取り、言語訓練などの学習を積むうち、半年間で歩けるようになる子、鉛筆で文字を書けるようになる子、発音できなかった子が〝お母さん〟と呼べるようになったことを報じている。この記事の最後は「こうした施設を各小、中学校に併設したり、県立の養護学校を一日も早く開設してほしいというのが先生、母親ともどもの望み…」と結んでいる。浜松市三方原町に県立の浜松療護園が開園を迎えたのは昭和三十八年十月一日、ここは肢体不自由児を収容し、整形外科的治療(診察、手術、動作訓練など)を行う病院で、経営は日本赤十字社静岡県支部が行うことになった。ここに入った児童・生徒は近くの豊岡小学校と北星中学校の特殊学級生として授業を受けることが出来たが、同三十九年四月一日には静岡県立静岡養護学校の西部分校が園内に開校、小・中学部六学級、児童・生徒数四十二名で発足した。その後、校舎を新築し、昭和四十九年四月一日に静岡県立西部養護学校として独立を果たした。浜松療護園はその後増築し、定員を百名としたが、特に重症な子供たちは入園することが出来ず問題が残った。これを受けて浜松市は笠井町の旧静岡県浜松北保健所の建物を改装し、四十四年五月三十日に浜松市心身障害児訓練センターを開所した。ここは通園して訓練する施設であったが、親たちの心のよりどころとしての役割も果たした。
 
【重度障害者】
 当時、市内には約七百人の肢体不自由児、精神薄弱児、言語障害児、重症心身障害児などの子供たちがいたが、これを受け入れるところは先述の浜松療護園、小羊学園、浜松授産所程度で、特に重度の障害者は全く見放されているという状態であった。なお、養護学校の義務化は昭和五十年代半ばまで待たなければならなかった。