職業訓練学校は文部省や教育委員会の管轄外の施設であるが、多くの中・高校生が卒業後に入所(入校)して技術指導を受けたのでこの項目で取り上げる。
【浜松機械職業訓練所 浜松機械高等技能専門学校 浜松建設職業訓練所 浜松建設高等技能専門学校】
工業都市として発展してきた浜松市にとって技能者の養成は必要欠くべからざるものであった。明治以降、技能者の養成は各企業においても行われてきたが、より広く公的な機関において実施されるようになったのは昭和に入って(大正期に一時的に染織講習所があった)からのことである。国が全国二十カ所に機械工養成所を設置することを表明し、既に静岡県では静岡市に設置が決まっていたにもかかわらず、浜松市の鉄工機械関係者は全額地元負担による建設運動を展開、ついに浜松設置の認可が下り、規模は静岡市のそれをはるかにしのぐ静岡県立浜松機械工養成所が向宿町に完成したのは昭和十三年四月のことであった。戦後は名称や科目に変動が見られたが、昭和三十三年七月に静岡県浜松機械職業訓練所と改称した時点では、機械科、鋳造科、小型自動車整備科があり、訓練期間は一年であった。授業料は無料、通学には学生割引が適用され、就職率はほぼ百%ということで、中学校卒業生には人気があり、科目によっては競争率が五倍を超えるところもあった。以後、向宿町から小池町に移転、昭和四十七年には静岡県立浜松機械高等技能専門学校と改称した。一方、昭和二十一年七月、菅原町に静岡県立浜松建築工補導所として開所した職業訓練所は同三十三年七月に静岡県浜松建設職業訓練所となり、建築科、木工科、ブロック建築科を置き、訓練期間は建築科と木工科が一年、ブロック建築科は半年であった。昭和四十七年には静岡県立浜松建設高等技能専門学校と改称、これまでの幸町(青年女性センターの位置)から初生町の旧三方原中学校跡地に移転し、新規学卒者や離転職者などに対し専門的な技能教育を行った。この二つの高等技能専門学校は時代の変遷により新しい科(板金・配管・左官など)を設置したり、昭和四十三年度からはより高度な技能を教えるため高卒コースを設けたりした。これらの学校の卒業生は浜松地域の工業や建設関係の現場で、身に付けた高度な技術や技能を生かしてものづくりに当たった。
【浜松総合高等職業訓練所】
高度経済成長のこの時期、浜松市の楽器や自動車、機械などの企業は生産規模の拡大により、従業員の確保に努めていた。新聞の広告欄は「社員募集」「従業員募集」のオンパレードであった。昭和四十二年八月二十日号の『広報はままつ』は「雇用促進事業団 浜松総合職業訓練所を建設」の見出しの下、大規模な職業訓練校の概要を記事にしている。その背景について同紙は「…これからますます発展する浜松にとって専門の技術者は欠かせないもの、総合職業訓練所の完成に大きな期待がよせられています。」と記している。昭和四十三年四月一日に開所した浜松総合高等職業訓練所(同四十四年からは浜松総合高等職業訓練校)は機械科、塗装科、溶接科の三科で、訓練期間は二年、中学校卒業以上を対象としていた。以後、施設の充実と産業界の要請により自動車整備科、金型科、板金科、電気機器科、電子工事科などが設けられた。職業訓練生の募集を伝える『県民だより』は「すぐれた技能者は、あすの産業を支える力です」と呼び掛けていた。なお、新聞では国立とか国の職業訓練所が出来るとしているものもあるが、雇用促進事業団とは労働省が所管する特殊法人で、労働者の技能の習得や地域間・産業間の移動の円滑化などを図る機関として昭和三十六年に設立されたものである。
【浜松学園】
この頃、知的障害児を持つ保護者(手をつなぐ親の会など)から、この子供たちへの職業訓練も必要との意見が出始め、設置は県が進めるものの土地は浜松市が探すことになった。しかし、設置の候補地として決まった土地は付近住民の反対で二度も断られるという不幸な事態となり、ようやく豊岡町に決定、予定より半年遅い昭和四十二年九月一日に静岡県立浜松学園が開園した。この学園の対象生徒は十五歳から十八歳までの男女で、入所期間は二年、鉄工科、木工科、縫製科の三科が設けられ、部品の製造や加工、ミシン縫製の仕事を会得することになっていた。県下には約三万人の知的障害児がいると推定されていたが、この施設は県下で最初の職業訓練施設であった。県下一円からの生徒を対象としているため、全寮制で、職業訓練のほか、生活や教養を身に付けるなど、社会人として自立できるように指導していった。