公民館

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 昭和四十二年における浜松市の公民館の現状が同年八月二十九日付の『静岡新聞』に詳しく出ている。それによると、浜松市内には文部省の公民館設置基準を一応備えている市立の公民館は中ノ町、都田、村櫛、伊佐見、和地の五公民館、市役所の連絡所や出張所などの建物の一部を利用して開設している準公民館が積志、芳川、入野、三方原、笠井、和田、篠原の七カ所、公民館類似施設として町や自治会が独自に設置した小規模な町立の公民館が百七十七カ所にあった。五つの公民館では和地を除いて専任の職員が配置され、成人講座や若妻教室、各種講習会、スポーツ大会の開催など、多彩な事業を展開していたが、準公民館は施設が貧弱で、ほとんどは嘱託職員にその管理を委託している程度であった。公民館と準公民館のある地区は戦後浜松市に合併したところで、市の中心部には公民館、準公民館は皆無であった。これを受けて市は中心部に中央と東、西、南、北の五公民館をつくる計画を立てた。
 
【東部公民館 西部公民館】
 相生町にあった東部中学校が昭和四十三年に飯田町に移転、旧東部中学校の鉄筋コンクリートの校舎が空いた。この中学校の六教室を改造して浜松市立東部公民館が開館したのは昭和四十三年十月一日であった。専任の職員を配置し、各種学級の開設、施設設備の提供、展示会や講演会、グループ活動の育成など、東部地区の社会教育の拠点としての役割を果たすことになった。続いて、昭和四十五年五月二日に浜松市立高校内に浜松市立西部公民館(図2―25)が開館した。この建物は大正期に浜松高等工業学校の校舎として建設され、鉄筋コンクリートの頑丈な建物であったため、戦災でも焼失を免れ、戦後は静岡大学工学部の電子工学研究施設となり、テレビの研究が行われていた。この施設が静岡大学の電子工学研究所に昇格し、現在地(中区城北三丁目)に移転したため、同四十一年に浜松市立高校の校舎に払い下げられ、一部が校舎として使用された。その後、同校の校舎の整備が進み、この建物の再利用について地元の自治会などから公民館にしてほしいとの意見が出て、浜松市もこれに同意、この校舎の一階部分を改装して公民館にしたのである。西部公民館には市の職員が二名配属され、多くの講座や各学級を開設、生涯教育の拠点となった。東部と西部の二公民館は市内の中心部にあり、専任の職員が配置されたため、多くの社会教育事業を行うことができ、そのため利用者は急増していった。新聞の見出しにも「開館半年で人気者」「住民に広く貢献 講座、学級に大繁盛」と出るほどだった。この二公民館の成功により、浜松市は新しい生涯教育の構想の下に新しく設計し、全国に誇り得る大規模な浜松市立北部公民館を開館させたのは昭和四十九年二月十七日のことであった。これについては第三章で記したい。

図2-25 西部公民館