【浜松市立青少年の家】
住吉町の住吉墓苑(元陸軍墓地)にあった平和記念館(昭和二十九年七月に浜松市遺族会が建設)を増改築して浜松市立青少年の家が落成式を迎えたのは昭和三十六年九月二十七日であった。一帯は松林に囲まれた静かな所、ここの広場は約一万三千平方メートルもあってソフトボールやフォークダンスをするには絶好の場所であった。五十人の宿泊が可能で、食事は自炊が原則、青少年たちがここで共同生活をし、教養を高めたり、体育や野外活動などのレクリエーション活動をするための施設であった。市内のボーイスカウトやガールスカウトなど青少年の団体の利用も多かった。また、青少年の健全育成に取り組むリーダーの養成も行われ、ゲームやフォークダンスなどに堪能なリーダーが数多く育っていった。この青少年の家が鉄筋コンクリート三階建ての大きな建物として新築・開館したのは昭和四十四年四月一日、青少年の研修、文化活動、野外のレクリエーション活動に、より多くの人たち(百人の宿泊が可能)が利用できるようになった。当時これだけの施設と活動内容は他市に誇り得るものであった。なお、野外活動訓練場として横川訓練場(旧天竜市立横川小学校)と吉沢訓練場(旧佐久間町立吉沢小学校)ではキャンプや水泳、ハイキングなどを体験することが出来た。
【浜松市立勤労青少年ホーム】
浜松は工業都市で多くの工場があり、高度経済成長期には多くの労働力を必要としていた。このため、多くの企業は県内はもちろん、遠く北海道、東北、九州から中学校や高等学校を卒業した多くの青少年を受け入れるようになった。これら遠方の若者は昭和三十年代中頃からは集団就職という形で浜松にやって来ることになり、新聞には毎年三月にこの話題が掲載されるようになった。大企業は福利厚生施設を完備し多くの学ぶ機会を青少年に与えていたが、中小企業にはそうした施設が少なかった。こうしたなか、労働省は全国に七カ所の勤労青少年ホームを設置し、昭和三十八年度には新たに四カ所に新設する計画を立てていた。浜松市はこの構想に強い関心を寄せ、県と共に猛運動を展開、鹿谷公園内に用地を確保、昭和三十九年六月一日に浜松市立勤労青少年ホームとして開館した。ここは市内の事業場で働く青少年の教養、慰安、レクリエーションのための施設で、娯楽談話室、体育室、音楽室、料理講習室などがあり、公園内にはテニスコートもあった。県下初のこの施設は開設から一年間で利用者は六万人にも達し、全国有数の利用率となった。