【宿日直の廃止】
学校の宿日直は明治期に教育勅語や御真影を守るために始まったとされているが、戦後は学校の火災や盗難などを防いだり、地元の人々との連絡や調整などのために続けられてきた。しかし、教員に過重な負担(深夜や早朝の校内巡視、多くの箇所での戸締りなど)を強いているとの批判が高まり、昭和四十年代に入ってその是非が問題となった。日本教職員組合が文部省に対して宿日直の廃止を申し入れたのは昭和四十年、これを受けて文部省は昭和四十一年度に全国的に宿日直の実態調査を行い、翌年の七月にその結果を発表した。それによると、宿日直をしている学校は小学校で九十%、中学校九十四%、高校は宿直八十三%、日直八十九%であった。男子教員一人の宿直回数は小学校で月二回から四回未満が三十六・四%、四回以上が四十四%、中学・高校では月二回未満が多かった。また、宿直時間中の緊急事務(文書・電話)はめったにないこと、火災・盗難などの事故も少ないことなどが分かったという(『朝日新聞』縮刷版 昭和四十二年七月二十八日付)。浜松では、教員の多い大規模校は宿日直の回数は少ないものの、小規模校では宿日直の回数が多く、厳しい勤務が続いていた。浜松市での宿日直廃止の話し合いは浜松市教育委員会、浜松市校長会、浜松市教職員組合の各代表が集まって協議(三者協議会)をする中で進められた。ただ、地元住民の中には地域の拠点となるべき学校が無人化されることへの抵抗は大きく、その理解を得るための条件整備が必要で、すぐには実施できない状況下にあった。まず、火災対策として校舎の鉄筋コンクリート化が急がれ、外部からの侵入や盗難防止のための施錠、消防署への通報装置などの設置が必要となった。昭和四十五年九月二十五日に開かれた浜松市議会定例会で、林行夫議員が教員の宿日直廃止の見通しを質問した。これに対して飯尾晃三教育長は同四十五年当初に十九校が廃止、この二学期中に浜松市立高等学校を含めて二十五校が廃止になると述べ、これで廃止の割合は五十八%になるといい、昭和四十六年度中に未廃止校三十一校が廃止できるように努力したいと答弁している。そして昭和四十六年十二月二十五日に市内の全ての学校で宿日直の制度は終わりを告げた。なお、県立高校では昭和四十五年五月一日から宿日直が廃止された(浜松市立高校は昭和四十五年十月一日)。『浜松西高新聞』には「明治時代以来の宿日直制度が、本校でも五月一日から廃止された…」とあり、「…県が契約したガードマンが三~四回の夜間パトロールを行なう」と記されている。廃止直後は時間制限に生徒の不満は大きく、特に文化部は活動しにくいとか、土曜日などは追い立てられる感じなどの苦情が寄せられた。これらの問題はその後状況に応じて改善されていった。