【齢松寺の移転】
右の「公園緑地計画」「墓園計画」を遂行するに際して、行政が直面した一例として齢松寺(真宗大谷派)移転問題がある。昭和四十年六月二十五日付の『静岡新聞』は、この問題が解決された事を報じた。
この一件は明治初年の浜松城東側の国有地払い下げに始まる。齢松寺は市内後道(うしろみち)にあったのであるが、明治二十七年に旧城内本丸跡に移転し、昭和四年には墓地をも同所に移転させている。
戦後の昭和二十四年、浜松市の都市計画で浜松城一帯が都市計画公園に指定されたのを機に、寺院とその附属幼稚園の立ち退き問題が起きた(敷地は約三百坪)。昭和二十九年に換地案も浮上したが、当初は後道から浜松城跡に移転させられた時の、役場との交渉経緯を理由に寺院・檀家側から同意が得られなかった。その後昭和三十八年に至って、まず齢松寺墓地を先記の「墓園計画」で造成された中沢町の市営墓園に移し、次いでその二年後、換地や移転補償費をめぐる折衝を経て、市内中沢町の市営墓園に隣接する市営火葬場の東側の市有地に移転することで一件落着した。昭和四十年六月二十五日付の『静岡新聞』の記事では、移転費八百九十万円、墓園内の約六百坪を寺院敷地として貸与するという条件で決着したと報じている。