浜松城下を歌う近世俗謡に「遠州浜松広いやうで狭い、横に車が二挺立たぬ」という狭隘(きょうあい)な町幅の道路事情は、戦前の浜松に踏襲されてきた地区に多かった(『浜松市史』二、二二二頁)。浜松駅南地域は空襲被害も甚だしく、戦後の都市計画の進捗が期待される地域であった。駅南の都市計画事業の第六工区(砂山・海老塚・北寺島)は難事業であった(『浜松市史』四 第三章第一節第二項)。しかも、戦後の駅南地域には工場や住宅が増えたので、必然的に交通量が増加していた。
【龍禅寺】
昭和四十五年八月二日付の『静岡新聞』は、右の駅南第六工区に南接する龍禅寺町の自治会が、地区の子供らを交通事故から守るために、遊び場を確保するという行動に出たことを報じている。龍禅寺(高野山真言宗)境内の参道を子供広場にするというのである。
龍禅寺町はその名が示すように古刹の門前町由来を冠した町名である。寺は本来、生者としての地域住民に家族や先祖とのつながりを意識させる祈りの場所であり、境内は習俗としての子供の遊び場、子供の居場所でもある。この龍禅寺大前智良住職は七年前、境内の一部に遊具を整え、子供広場を提供していた。
他方、境内の参道は元来、私道であるにもかかわらず、交通量の増加につれて通り抜けや近道に利用する一般車両も多く、また近隣住民が利用する公道的な存在にもなっていた。そこで自治会では町内千三百五十戸にむけて、この道路を封鎖して子供広場に利用することの是非を問うアンケートを実施した。自治会はほとんど全戸の賛同を得て、龍禅寺住職に懇願し、浜松市、浜松中央警察署に道路封鎖の陳情書を提出した。
封鎖案は土曜日の午後一時から五時まで、日曜日の午前九時から午後五時まで、という時間帯である。この案は行政側の承認するところとなり、龍禅寺住職・子供会・自治会・婦人会・市長・市議会議長・中央警察署交通管理官などの祝福を受け、子供広場の開所式が挙行された。これは共働き世代の子供の放課後の居場所に配慮する地域住民の熱意、寺院側の日常の教化活動、言葉と行動が一致した成果であろう。