[墓苑の創設]

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 経済の高度成長期に向かう時期の特徴として、農村からの都市部への人口移動が指摘されているが、それには当然ながら住宅不足問題が続くことになる(『浜松市史』四 第三章第七節第一項参照)。この問題はひいては現代社会に顕在化する家族論・葬祭論・墓地設営問題へと展開することになろう。しかし、浜松市近郷の農村部では別の観点から、墓制、特に土葬の共同墓地の扱いが緊急課題となる。すなわち、昭和二十三年に制定された墓地、埋葬等に関する法律、つまり、宗教認識、公衆衛生、公共の福祉に加えて、都市計画の一環としての交通政策もまた誘因するところである。
 旧入野村(昭和三十二年三月、浜松市編入)の、佐鳴湖西側に開ける三方原南縁の丘陵には、陽報寺(臨済宗妙心寺派)をはじめ、村内各寺院の共同土葬墓地があった。昭和二十三年の右の法律に基づく浜松保健所の監督下で土葬の改葬が執行され、火葬後に各寺院の参り墓に埋葬された。
 昭和四十七年二月十五日付の『静岡新聞』の報道にみえるのであるが、旧篠原村(昭和三十六年六月、浜松市編入)を東西に貫通する国道一号線のバイパス敷設計画に伴い、共同土葬墓地の改葬問題が浮上した。浜松市南部には堤と呼称される遠州灘の防砂林が天竜川西から今切東まで、幾筋か東西に延びており、旧篠原村の集落の南側、篠原中学校に近接する南側の地点では、堤の一番北側の防砂林の一部や農地、共同墓地を壊す形で国道一号線のバイパスが敷設されることになった。
 
【土葬 火葬】
 長福寺出自の脇本淳子前春日幼稚園園長の教示によれば、篠原地区の七箇寺(万松院・保泉寺・玉蔵寺・篠原寺・宝林寺・長福寺・興福寺)の共同墓地(俗称むかいやま)は火葬場に併設されたものであるが、檀家はその地に土葬する場合と、火葬後に各寺の墓に納骨する場合とがあったという。むかいやまには約千世帯の約三千二百に上る土葬遺骨が埋葬されていた。この遺骨を祀るために、東海道本線北側にあった旧長福寺所有の墓地(俗称いもり塚)で、市有地となっている共同墓地を拡張整備し、既にここに埋葬されている五百体の遺骨と、先の三千二百体の遺骨とを合わせた三千七百体の遺骨を祀る慰霊苑を建設することとなった。建設費はバイパスの移転補償費や市費補助を合わせて八百三十万円であった。慰霊苑は七百四十五平方メートルの敷地内に建設面積五十七平方メートルの六角形の納骨堂と駐車場が設営され、参道に植え込みを植栽して荘厳されることになった(昭和四十七年三月、落成式執行)。
 
【共同墓地の整備】
 浜松市は都市計画を進展させる見地から、残された市内の共同墓地の整備を計画した。篠原霊苑創設に続いて、昭和四十八年に浜松市南部の法枝町の土葬墓地が改葬され、慰霊苑が建設された。ただし、この地域は明治期に禊教に集団改宗した地域であることから、法枝町慰霊苑管理委員会規則で規定するように、禊教信徒のための慰霊苑であり、祭壇も禊教の様式、儀式も禊教形式である。かつての共同墓地に埋葬されていた数軒の仏教徒の家では市営三方原墓園へ改葬したようである(『新編史料編六』 四宗教 史料7、 孝本 貢「浜松における墓地の概況」参照)。