昭和三十五年七月に発足した池田内閣は所得倍増を旗印に掲げ、昭和四十五年までに国民の所得を二倍にすると宣言した。この国民所得倍増計画は経済の安定成長を通じて国民生活の向上と完全雇用を達成しようという考えであった。そのために①社会資本の充実、②産業構造の高度化(重化学工業化)、③貿易と国際経済協力の推進、④人的能力の向上と科学技術の振興、⑤二重構造の緩和といった五つの政策目標を掲げ、これらを実現することによって国民所得の倍増を図ろうとするものであった。
高度成長も後半(昭和四十年以降)になると労働力不足から勤労者の賃金も上昇し、さらに労働生産性の上昇と勤労者の賃金上昇がリンクするようになっていった。表2―19によれば名目賃金の増加率は労働生産性の増加率を上回っていることが分かる。また、物価上昇分を差し引いた実質賃金の増加率も昭和四十五年以降労働生産性の増加率を上回る勢いであった。
【消費主導型成長】
この時期の成長は図2―30のように、労働生産性の上昇→賃金上昇→消費の拡大→生産需要の拡大→投資拡大→生産性の上昇といった消費主導型成長によって成り立った。特にわが国の場合は労働生産性の上昇が日本的雇用慣行(終身雇用・年功序列型賃金など)を前提にした安定雇用や労働者の賃金交渉力の強化と結び付き、勤労者の賃金を上昇させていった。また、消費者信用(割賦販売や消費者ローンなど)も消費の拡大を誘発した。なぜなら、消費者信用は将来得られる所得を今の消費のために使うことを意味しているため、長期に雇用が安定していないと成り立たない仕組みである。このような消費の拡大は企業の生産を刺激し、さらなる投資拡大と結び付いていった。
【三種の神器】
国民の消費生活においても「三種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)や「3C」(カラーテレビ・クーラー・カー)といった消費革命が次々に起こり、物質的な豊かさを実感するものになっていった。いわゆる大衆消費社会の到来である。車、家電、持ち家といった耐久消費財を中心にした生活様式はアメリカ的ライフ・スタイルとも呼ばれ、日本人にとって豊かさを実現する消費モデルになった。こうした消費の拡大はいくつかの要因によってもたらされた。第一に、労働生産性の上昇と賃金上昇がリンクし急激な所得の拡大があった。第二に核家族化が進み消費単位が家族中心になったことも消費の拡大につながった。第三に大量生産と大量消費の相乗効果が生まれ、大量生産による耐久消費財価格の低下と労働生産性の上昇による所得の増大が結び付いた。
浜松市民の消費支出も、この期間に大きく変化していった。地域産業の急激な成長に伴い、周辺の農村部や東北・九州地方などから労働力として人々が流入し人口増加をもたらした。これにより市経済は全国から集まった勤労者や市民の所得の上昇によって支えられるようになっていった。事実、雇用者の所得は、図2―31が示すように高度成長期に急激に上昇していったことが分かる。つまり、勤労者が消費の主役になっていったのである。
【消費支出】
浜松市民の個人所得の処分状況を表2―20で見ると、個人所得額が年々上昇し、昭和三十五年から同五十年までの十五年間で約十三倍に増え、これに伴って個人消費支出も約十二倍に増えている。他方、所得に占める消費支出の割合は低下傾向にあり、個人貯蓄の割合は大きく、二十%を下回ることはなかった。また、消費支出の内訳を見ると、衣・食・住といった必需的消費支出は所得の上昇とともにその割合を低下させているのに対して、雑費の割合を増やしていることが分かる。ただし、住居費の割合が増えているのは人口増加に伴い住宅供給が追い付かないため賃貸料の上昇が原因になっていると思われる。いずれにせよ、浜松市民は所得の上昇とともに消費水準を高め、同時に将来の備えのために貯蓄するという堅実な消費生活していることが分かる。この時期は、浜松市民が最も経済的な豊かさを実感していった時代でもあった。
表2-19 製造業における生産性と賃金の増加率(各5年間平均) (単位:%)
昭和30年 ~35年 | 昭和35年 ~40年 | 昭和40年 ~45年 | 昭和45年 ~50年 | |
労働生産性 | 9.7 | 6.8 | 12.5 | 5.1 |
名目賃金 | 6.2 | 10.1 | 14.7 | 18.0 |
消費者物価 | 1.6 | 6.1 | 5.4 | 11.5 |
実質賃金 | 4.6 | 3.7 | 8.8 | 5.8 |
図2-30 消費主導型成長
図2-31 雇用者所得と個人業主所得の推移