[企業の電子計算機の導入]

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 コンピュータ産業がアメリカで初めてこの世に姿を現したのは一九五〇年代初期と言われている。その後急速な技術の進歩と旺盛な需要により、短期間に急速に成長してきた。コンピュータは集積回路や情報処理といったハードウェアとソフトウェアの両面にわたる関連産業を発展させ、経済の情報化や知識集約化を推し進めていった。さらにコンピュータの小型化・高性能化・低価格化に伴ってFA(ファクトリーオートメーション)やOA(オフィスオートメーション)などの応用分野を拡大する一方で、通信技術の革新と結び付き情報革命とも言われるような影響を社会や生活にももたらしていった。わが国におけるコンピュータの普及は昭和三十年代から始まったものの、外国産機種のシェアが圧倒的に高かった。しかし、昭和四十年代の中頃になると国産機と外国機が逆転し、それ以降大型機は外国機、小型機は国産機といったすみ分けが進んでいった。
 
【コンピュータ導入】
 浜松地方でのコンピュータの導入は昭和四十年代頃から始まっている。浜松商工会議所がまとめた統計によると、昭和四十五年当時、コンピュータを導入しているところは官庁、学校を含め十六事業所程度であった。当地方でコンピュータ導入にいち早く踏み切った企業は武藤衣料株式会社で、昭和三十八年十月に沖電気のユニバックを採用した。コンピュータの活用は給与計算、在庫管理、売掛金管理、販売統計、原価計算、出荷指示、販売管理など多方面にわたり、一台で二百人分の働きを見せたとのことである。
 各産業での普及状況を見ると楽器業界では日本楽器が昭和四十年五月にIBM40型を、河合楽器は同四十一年二月にIBM360型を導入し、総務、生産、販売部門で活用された。オートバイ業界では鈴木自動車が同四十二年八月にNECのNEACを、同四十三年三月には日立ハイタックを導入し技術・生産管理などでフルに活用された。金融業界では浜松信用金庫が同四十三年十月にIBMのコンピュータを導入した。浜松信用金庫は、従来事務処理の増大に対して複合機、単能機、パンチカードシステムなどの機械化によって対応してきたものの限界に達したためコンピュータの導入に踏み切った。コンピュータ導入によって①事務処理の迅速化・正確化、②人件費の削減、③事務量の増大に対処など、経営の合理化・近代化を図ろうとした。運輸業の遠州鉄道は同四十四年六月に富士通ファコム二三〇―一〇を導入し給与・経理関係の処理で活用し、将来は遠鉄グループをオンラインシステムで結ぶ計画を立てた(『東海展望』昭和四十五年四月号)。浜松地方におけるコンピュータの普及は、これ以降、大企業から中小企業へ、特定の産業からすべての産業へ拡大の一途をたどっていった。また、その活用も事務処理的業務からあらゆる分野へ拡大していった。