【集団就職】
集団就職の状況を当時の新聞は次のように報道している(『静岡新聞』昭和三十五年三月二十三日付)。
遠州織物工業協同組合の千九百十工場では、四千人の女子工員を集めるため昨年秋から東北、九州地方の中学校や職安を回り、求人獲得に奔走していたが、その集団就職第一陣が二十二日午前十一時二十四分着の上り急行〝西海〟で浜松駅に下り立つた。
この一行は福岡県田川職安から紹介された(中略)二十八人(男子四人、女子二十四人)で長い汽車の旅のつかれもみせず、希望にみちた表情で元気に浜松の第一歩を踏んだ。
特に繊維業界の労働力不足は深刻で昭和四十二年当時において、業界全体の新規中卒者に対する求人数は五千七百九十五人であるのに対して就職者数は千四百六十八人(県内四百二十八人、県外千四十人)で充足率は二十五%に過ぎなかった。この業界が敬遠される理由には①二交代制の勤務になっているため生活が不規則になること、②楽器やオートバイのような華やかさがなく弱小企業が多い、③戦前の女工哀史のイメージが強い、などが指摘されていた。このような傾向は高度成長の間続いたが、ドルショックやオイルショックを契機に高度成長に陰りが見えてくると、地元企業の求人数は大幅に減少するとともに、求人の主体が中卒者から高卒者へ移っていった。