【ドルショック】
昭和四十六年八月十五日、ニクソン米大統領は緊急経済対策を発表し、その中で金・ドル交換の一時停止、賃金・物価の九十日間凍結、十%の輸入課徴金などのドル防衛策を打ち出した。いわゆるドルショックである。戦後の国際通貨制度は、IMF体制の下、米ドルを基軸通貨にすることによって成り立っていた。この基軸通貨制は金一オンス=三十五ドルという金レートとドルと各国通貨の交換を固定相場制にすることによって成り立っていた。従って、ドルの金交換停止は戦後の国際通貨制度を根底から揺るがす事態となった。混乱回避のため各国は外国為替市場を一時的に閉鎖したものの、大量のドル売りを抑えることは出来なかった。
【変動相場制】
従って、同年十二月ワシントンで十カ国蔵相会議を開き事態の収拾を図った。この会議により金一オンス=三十八ドルのドル切り下げが行われ、主要各国の為替レートも新たに設定された。円は一ドル=三百八円に切り上げられ、米国の輸入課徴金も撤廃された。いわゆるスミソニアン体制の発足である。しかし、この体制も長続きせず、同四十八年に入るとドル不安が再燃し、一月から三月にかけて各国とも相次いでフロート制に移行、わが国も二月十四日変動相場制へ移った。
アメリカがドルの金交換停止に踏み切った背景には長期にわたった国際収支の赤字の累積があった。国際収支の赤字は巨額の対外軍事支出や対外援助を貿易収支の黒字で穴埋めできなくなったためである。また、アメリカの多国籍企業の積極的な国外投資が、逆に国内投資を鈍化させ国内企業の国際競争力を弱体化させたため輸入が拡大し貿易収支の悪化を招いた。基軸通貨国であるアメリカの国際収支の赤字は必然的にドルの流出を招き、国際市場におけるドルの過剰流動性を引き起こすとともにドルの信頼を低下させたのである。
輸出依存度の強い浜松の三大産業は、ドルショック以後、十六・四%の企業が生産調整に踏み切り、半数の企業は受注や売り上げの悪化を懸念した。特に親企業からのコストダウン要請があった中小の下請け企業は三割を超え、機械金属業界では五割に近い企業がコストダウンの要請を受けた。親会社からの要請に対し、コストダウンのための企業努力にも限界があり、多くの中小下請け企業は厳しい環境に置かれた。さらに、繊維業界は親企業からのコストダウン要請と景気後退の長期化による売り上げ低下の見通しにより転・廃業する企業も増えていった。