大型店進出の第一号は名古屋資本のほていや(昭和三十五年二月進出)で、次いで長崎屋が同三十八年(当初田町に進出、同四十四年モール街に移転)に進出し、同四十二年には地上七階地下二階の遠鉄名店ビルが完成し、東京や名古屋の有名店や県内の店がオープンした。同四十四年になると大阪資本のニチイがモール街に進出、また、地元資本のマルサ(呉服店)がジャスコと提携しジャスコマルサとなった(表2―23)。その結果、大型店同士の激しい商戦が繰り広げられ、買い物客の流れも変化していった。浜松市の中心商店街の重心は長崎屋やニチイが進出したモール街に移っていった。
表2-22 小売商店数の推移
昭和35年 | 37年 | 39年 | 41年 | 43年 | 45年 | |
各種商品小売業 | 1 | 4 | 3 | 5 | 7 | 14 |
織物・衣服身の回り品小売業 | 971 | 993 | 1,039 | 1,064 | 1,083 | 1,081 |
飲食料品小売業 | 2,641 | 2,801 | 2,837 | 2,969 | 2,998 | 2,852 |
飲食店 | 881 | 943 | 1,059 | 1,308 | 1,515 | 1,768 |
自動車・自転車・荷車等小売業 | 192 | 159 | 213 | 200 | 265 | 271 |
家具・建具・什器小売業 | 593 | 600 | 667 | 687 | 639 | 643 |
その他小売業 | 980 | 1,016 | 1,099 | 1,183 | 1,385 | 1,446 |
合計 | 6,259 | 6,516 | 6,917 | 7,416 | 7,892 | 8,075 |
表2-23 大型店の進出状況
企業名 | 本社 | 進出年月 | 売場面積 |
ほていや | 名古屋 | 昭和35年2月 | 3,350m2 |
昭和38年4月 | |||
昭和41年10月 | |||
ジャスコマルサ | 名古屋 | 昭和36年12月 | 1,419m2 |
長崎屋 | 東京 | 昭和38年5月 | 4,080m2 |
遠鉄名店ビル | 浜松 | 昭和42年10月 | 4,613m2 |
マルゼンデパート | 東京 | 昭和43年12月 | 1,450m2 |
ニチイ | 大阪 | 昭和44年9月 | 9,240m2 |
西武百貨店 | 東京 | 昭和46年10月 | 22,823m2 |
注:「ほていや」は浜松 サガミ店、千歳店、浜松センター店の順に進出。
注:「ジャスコマルサ」は浜松資本のマルサにジャスコが資本参加し、昭和44年に誕生。
【西武百貨店】
しかし、昭和四十六年に東京のデパートという魅力あるイメージを持った西武百貨店が鍛冶町に出店すると、歩行者の流れに変化が起きた。従来、歩行者の動線はモール街にあったが西武百貨店の進出により鍛冶町にも移った。買物客の五割が鍛冶町方面に流れ、三割がモール街に、二割が有楽街へと変化した。西武百貨店の出店で大型店(売場面積千五百平方メートル以上)は十一店になり、総売り場面積も約六万六千平方メートルとなった。
【浜松商店界連盟 浜松竜西商店会連盟】
このような大型店の出店攻勢に対して地元の商店は何らかの打開策に取り組まざるを得なくなったものの、統一した対応が取れないでいた。地元の小売業者を代表する組織は二つあり、一つは昭和二十三年に設立された浜松商店界連盟(中心街の商店を中心とした五百二十店)であり、もう一つは周辺地域の商店を組織し昭和三十一年に設立された浜松竜西商店会連盟(積志、笠井、入野、芳川など商店四百店)である。これら地元の商店界(会)は、大型店の出店攻勢の中で、必ずしも利害が一致せず中心部と周辺部の格差が目立ち始めてきた。従来、共に繁栄するための方策として全市連合大売出しが開催されてきたが、これが顧客の奪い合いといった結果を生み出してきた。なぜなら、大型店の出店に伴い顧客が奪われ、残りのパイを取り合うという状況が生じてきたためである。
【スーパーマーケット】
また、流通革命の旗手として登場してきたスーパーマーケットも大型店の攻勢の中で影響を受けていった。地元スーパーの大手には松菱マート、トウア、主婦の店があり、さらに生鮮食品の販売を中心としたスーパー(スーパーいしはら、フードセンター加藤、鷺の宮スーパーストアなど)が多数存在していた。これらのスーパーは大量仕入れによる低価格販売を軸に着実に売り上げを伸ばしてきたが、大型店の出店に伴う影響を受け、特に弱小商店を中心に自然淘汰(とうた)が始まった。