[商店街の近代化]

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【浜松モール街】
 昭和三十年代後半から同四十年代にかけて大型店出店が相次ぎ、当初地元の商店会は一致団結して対抗措置が取れないでいたが、その後地元の商店会にも一つにまとまった対応策を打ち出そうという動きが出てきた。一つの動きは大型店との協調路線を取り、大型店という核店舗を導入することによって商店街全体を繁栄させようという対応である。その好例が浜松モール街である。昭和四十四年、有力商店街の一つである「浜松座通り商店街」は「浜松モール街」に改称した。モール街は有楽街と並んで市内でも代表的商店街であった。戦前は歌舞伎座通りと称していたが、戦後は、この通りにあった劇場や寄席の名称から浜松座通りと呼ばれていた。しかし、昭和四十年代に大型店のニチイや長崎屋が浜松座通りに次々に出店し、名実ともに市の中心商店街になってきた。そこで、若手経営者から「新しい感覚の名称に改めよう」という意見が出され商店街の改称に踏み切った。アメリカで使われているモールという言葉をヒントに「浜松モール街」とした。モールとは、もともと「木陰のある散歩道」という意味であるが、アメリカでは歩行者専用商店街を表す言葉として使われるようになった。そこで車を通さず緑地を設け、買い物客に安心して買い物を楽しんでもらう街という意味を込めて命名された。
 
【アーケード】
 もうひとつの対応策はアーケードなどを建設して商店街の一体感を醸成するという方法である。砂山銀座商店会は商店街全面アーケードの対応措置を取った。約三十店の商店が昭和三十七年から資金を積み立て、自己資金に金融機関からの借入金を加え、二千五百万円の建設資金を調達した。完成したアーケードは鉄骨アルミ張りで、同商店街の両側店舗から屋根型の全面覆いをかけ、中央に明かり窓をとったもので、浜松では初めての全面アーケードであった。昭和四十三年十一月、幅八メートル、長さ百十五メートル、高さ六~八メートルのアーケードが完成し、一体化した商店街づくりが実現した。
 さらに大型店の出店攻勢に対して地元の小売業者が一体となって近代化を進めて行く目的で、昭和四十七年二月に浜松小売商業協同組合を発足させた。市内には商店街別、業種別組合があるが、いずれも任意団体にしか過ぎなかった。そこで法的組合を設立し、それによって小売業を総合的に指導していくものとした。組合は①小売商店の近代化、②共同施設の設置研究、③共同宣伝、④事業資金の貸付、⑤経営・販売技術の改善と情報提供、⑥従業員の福利厚生などの事業を行うことにした。