オートバイ産業は戦後における浜松の工業発展を主導した産業であり、その後の地域産業構造の在り方を決定付けた産業でもあった。また、高度成長期はオートバイ産業が最も成長した時期で、世界の三大メーカーの本田技研工業(以下、本田)、鈴木自動車工業(以下、鈴木)、ヤマハ発動機(以下、ヤマハ)がその地位を確立していった時期でもあった。
昭和二十年代の後半から同三十年代の前半にかけて大小三十数社のオートバイメーカーが乱立、下請け企業も含めると六百余りの工場が誕生し、名実ともに「オートバイの街・浜松」になった。しかし、その後多くの中小メーカーは自然淘汰(とうた)され、最終的には本田、鈴木、ヤマハが残ることになった。三大メーカーの生産拡大と海外への輸出の伸長は常に新しい製品を生み出す技術開発力と国際レースで示された製品の優秀性に負うところが大きかった。特に、国際レースへの参戦は大きな意味を持っていた。日本のオートバイメーカーが本格的に海外レースに参加したのは昭和三十四年のマン島TTレース(イギリス)で、一二五ccクラスに参加した本田はメーカーチーム賞(六位、七位、八位、十位)を獲得、さらに昭和三十六年には一二五cc、二五〇ccクラスともに一位~五位を独占した。鈴木、ヤマハも世界グランプリレースに参戦し優勝している。昭和三十年代後半から世界のオートレースにおいて日本の三大メーカーは圧倒的とも言える強さを維持していった。このような成功により、浜松地方のオートバイ産業は年々生産量を拡大、昭和三十一年約六万台、三十六年約五十二万台、オートバイブームの起きた四十一年には約百十二万台、四十五年には百六十一万台に達した(表2―28)。しかし、昭和四十二年頃を境に、国内においても急激に成長してきた四輪車の影響を受け始めた。このような変化の中で、本田と鈴木は相前後して本格的な軽四輪乗用車の発売に踏み切っている。オートバイ産業が立ち直ってきたのは一年後ぐらいであった。それは、それぞれの市場の成熟度に合わせた製品を提供することによって成し遂げられた。国内市場に対しては女性でも乗れるオートバイを、アメリカ市場に対しては排気量が大きくかつ安全性の高いスポーツタイプを、ヨーロッパ市場に対しては中型クラスの高性能のスポーツタイプを、東南アジア市場に対しては小型の商用タイプを、それぞれ供給することによって、浜松のオートバイ産業は息を吹き返すことが出来たのである。
次に、この時期の三大メーカーの動向を見ることにしよう。
表2-28 輸送機械工業の生産状況
昭和36年 | 昭和41年 | 昭和45年 | 昭和50年 | |
第一種原付(台) | 19,147 | 303,889 | 482,743 | 577,956 |
第二種原付(台) | 462,024 | 572,122 | 557,653 | 1,048,374 |
軽自動二輪車(台) | 38,185 | 108,102 | 217,100 | 294,455 |
自動二輪車(台) | 405 | 136,526 | 353,127 | 252,759 |
軽自動四輪車(台) | 13,774 | 67,226 | 271,498 | 168,603 |
輸送機械生産額合計 (百万円) | 43,669 | 105,485 | 270,440 | 342,584 |
【本田技研工業】
(1)本田技研工業
本田は、高度成長後半頃になるとマンモス企業に成長した。埼玉県大和町(現在の和光市)に本田技研工業の研究開発部門を分社化した(株)本田技術研究所を設立、自由な研究環境を実現させ、浜松製作所(浜松市)、埼玉製作所(埼玉県和光市)、狭山製作所(埼玉県狭山市)、鈴鹿製作所(三重県鈴鹿市)など既設の製作所を拡張・増設し、生産規模を拡大していった。浜松製作所では一二五ccのベンリイ号と耕うん機などを生産、鈴鹿製作所ではスーパーカブ、埼玉製作所では一五〇ccホンダ、二五〇ccのドリーム号の生産をそれぞれ行った。生産実績は、昭和三十七年に百万台を突破し、その後も増産に次ぐ増産を続けていった。輸出比率も増え百億円を突破している。浜松製作所では昭和三十六年に熱処理、鍛造工場を新築、同三十八年には塗装工場、同四十一年には鋳造工場を増築し規模の拡大を図っていった。本田の急成長を支えたオートバイの優秀性は海外レースに参戦する過程で開発した高性能の四サイクルOHCエンジンを搭載した(一部を除く)ことであった。このエンジンは冷却から排気まで非常に効率的で、燃費も良く、排気ガスもきれい、排気音も静か、耐久性もあるといった利点を持っていた。人気の秘密はこの高性能エンジンにあったといっても過言ではない。
【鈴木自動車工業】
(2)鈴木自動車工業
鈴木が世界のオートバイメーカーに登り詰めていった原因の一つは、世界グランプリレースで優勝したことである。昭和三十七年に五〇cc部門で初優勝し、さらに、同三十八年のマン島TTレースにおいて一二五ccクラスで一位、二位、三位、五位を、また五〇ccクラスでも一位、二位、四位、五位を独占し、他のメーカーの追随を許さない快挙を成し遂げた。これにより増大する受注に合わせて鈴木は規模の拡大を図っていった。磐田市に軽四輪車の専門工場(昭和四十二年)を、富山県小矢部市に二輪車専門工場(同四十四年)を、静岡県大須賀町には鋳造工場(同四十四年)、湖西市に軽四輪車の専門工場(同四十五年)、豊川市に二輪車の専門工場(同四十六年)を、それぞれ建設し規模の拡大と軽四輪車への転換を図っていった。昭和三十年代後半頃の主力商品は、セルペット五〇、五二、八〇cc(このクラス初の電磁チョーク付きセル始動で四段変速のモペット)で月産一万四千台、一二五ccのコレダ号が月産四千台で続いていた。昭和四十年代に入ると、オートバイと軽四輪車の出荷額が逆転し、同四十四年頃ではオートバイは全体の二十%にとどまり、軽四輪車が七十五%、残り五%が船外機等になった。これにより、鈴木は本格的に自動車産業へ参入したことになる。鈴木の特徴は自社と協力工場(下請け企業)が一体になって品質管理を行う点にある。昭和四十年代前半、鈴木の協力工場は六十七社で鈴自協力協同組合を組織して一心同体の受注体制を確立した。
【ヤマハ発動機】
(3)ヤマハ発動機
三大メーカーのうち最も後発のヤマハは、初めて発売した「YAMAHA125」が「赤とんぼ」の愛称で爆発的な人気を得た。この勢いに乗って、国内のオートレースに参戦、富士登山オートレース、全日本オートバイ耐久ロードレースで輝かしい成績を収めた。その後、本田、鈴木と同様世界グランプリレースに参戦、優秀な成績を獲得した。これらを追い風に、年々増産に次ぐ増産を重ね、昭和三十八年頃には中間機種のヤマハYG1(ジュニア)が月産六千台、一二五ccクラスのスタンダードが月産四千台になり、その他の製品と合わせると月産一万五千台に達した。ヤマハは世界最大の消費市場であるアメリカで日本楽器のピアノと二人三脚でヤマハオートバイの市場を拡大していった。また昭和三十九年にはバンコクで合弁会社を設立、同四十四年にはクアラルンプールにも合弁会社を設立し、合わせて月産千五百台前後のオートバイ生産を行い、主として東南アジアに供給した。昭和四十五年頃の生産額の割合はオートバイ七十三%、船外機とボート九%、部品九%、その他となっている。