戦後のこうした変動の中で政府がとった繊維産業政策は繊維業界の近代化と生産調整策であった。昭和三十一年の繊維工業設備臨時措置法(繊維旧法)によって精紡機の登録制の導入と過剰織機の買い上げ廃棄を開始した。さらに、昭和三十九年の繊維工業設備等臨時措置法(繊維新法)では設備制限の実効性を上げるために、二台廃棄に対して一台新設を認めるスクラップ・アンド・ビルドの原則が導入された。
表2-29 繊維産業の生産高の推移
昭和35年 | 昭和40年 | 昭和45年 | |
広幅織物(m2) | 309,266,835 | 321,568,891 | 306,309,402 |
天竜社織物(m2) | 82,464,579 | 101,518,862 | 120,389,874 |
小幅織物(m2) | 31,811,367 | 31,944,565 | 41,352,313 |
繊維機械(台) | 8,860 | 7,935 | 10,357 |
染色<織物>(kg) | 186,625,743 | 226,788,848 | 280,316,099 |
染色<糸染>(kg) | 7,551,578 | 7,276,203 | 8,989,419 |
【ガチャ万 過剰設備】
明治以来、一大綿織物産地を形成してきた浜松の繊維産業は終戦直後のモノ不足と昭和二十五年の朝鮮特需を背景に「ガチャ万」と言われた好景気を迎えた。その後、反動不況による綿織物価格の下落を招き業界が低迷していった。これにより「布の形をしていればなんでも売れる」時代は去り、質を競争する時代に転換していった。戦後、遠州織物産地においては過剰設備の問題が常に付きまとった。表2―29を見て分かるように昭和三十五年から同四十五年までの十年間の生産高は広幅織物、小幅織物においても、ほぼ横ばい状態であった。その一方で景気変動には敏感に反応し設備投資を繰り返していった。そのため業界は過剰設備・過剰生産の問題を抱えたのである。この過剰設備の背景には戦後の原綿輸入の外貨割当制度と織機登録制があった。なぜなら、この割当は織機設備に基づいて算定されていたため、原料を多く確保するためには設備投資に走らなければならなかった。もう一つの背景として組合を通じて容易に設備投資資金を調達できたことも過剰設備を生み出す原因になった。また、昭和三十九年の繊維新法ではスクラップ・アンド・ビルド方式がとられ、生産性の低い旧型織機が生産性の高い新型織機に置き換えられていった。そのために、逆に生産過剰を招いていったのである。
【構造改善事業】
高度成長期の繊維業界は二つの大きな問題を抱えていた。一つは労働力不足による賃金の上昇であった。もう一つは国際環境の変化である。業界では慢性的な人手不足への対応として、普通織機から自動織機の切り替え、従来の二部制操業から一部制への転換をはかる業者が増えていった。特に人手不足の解消策である自動織機の導入は繊維新法の構造改善事業(スクラップ・アンド・ビルド)に乗って活発に行われた。つまり、労働コストの負担増が機械設備の生産性向上に対する強いインセンティブ(誘因・動機付け)となったのである。昭和四十二年から同四十八年までの七年間の、遠織業界における織機ビルド台数の達成率は六十四・四%に上った。
【対米繊維輸出自主規制】
第二の問題は対米繊維輸出自主規制である。昭和四十三年の時点でアメリカが輸入する繊維製品のうち日本が占める割合は七割を超えていた。同四十四年、日米繊維交渉が始められ、その後しばしば中断しながら議論は白熱化していった。そんな中、昭和四十六年八月にドルショックが起き、金ドル交換停止、十%の輸入課徴金実施からなるドル防衛策が発表された。同年十月には日米繊維協定の仮調印が行われた。円の切り上げ、アメリカの厳しい繊維輸入規制は、逆にわが国の繊維製品の輸入を急増させていった。政府は、繊維業界救済として①転廃業など事業廃止の場合は、織機一台買い上げ標準価格は二十五万円、②事業規模縮小の場合は二十二万円を支払うこととした。これにより遠織業界で保有されている織機二万六千八百四十台のうち一割程度が買い上げられ、五十八企業が廃業、九十企業が規模の縮小を余儀なくされた。