楽器産業

199 ~ 203 / 1229ページ
 高度成長の下で国民の所得は年々増え、それに伴って楽器需要も拡大していった。楽器産業も一大飛躍を遂げた時期であった。もともとわが国の楽器産業は学校教育における音楽教育とともに発展・成長し、そこで生み出された需要に基本的に依存していた。ところが、高度成長期になると国民の所得上昇とともに一般の消費者が楽器需要の主役になっていった。このような需要内容の変化に対して楽器産業界は量産体制の確立を目指していった。
 
【ピアノ オルガン】
(1)ピアノ、オルガンの量産と販売
 戦後、ピアノやオルガンの需要が急激に伸びていったのは昭和三十四、五年頃からである。このような需要の拡大に対して最大手の日本楽器は市内西山町にアップライトピアノの組立専門工場(昭和三十八年)を、掛川市領家に多機種のアップライト専用工場(同四十年)を、磐田市新貝にピアノフレームの鋳造工場(同四十一年)を相次いで建設し、ピアノの月産一万台体制を確立した。他方、二番手の河合楽器も舞阪工場を整備拡充し、月産三千三百台から五千台のピアノ増産体制を作り上げた。その他の中小メーカーにとっても品物さえ良ければ「作っても、作っても不足気味」といった需要動向が続いた。
 
【音楽教室】
 楽器の大量生産・大量消費を確立した要因の第一は、メーカー側が打ち出した需要開拓手段である「音楽教室」にあった。ピアノやオルガンを一部の上流家庭の購入にとどまらず一般庶民の家庭へ普及させる上で、音楽教室は有効な手段であった。音楽教室が設置され始めたのは昭和二十九年頃からであるが、一般家庭に普及し始めたのは昭和三十四、五年頃で、急激に楽器への需要が増加した時期とほぼ一致している。昭和四十年当時、各メーカーが開く音楽教室は全国で約一万カ所に上り、多くの子供たちが音楽に親しむようになった。また、文部省による器楽教育の義務付けや、昭和三十七年からの物品税の軽減なども楽器の需要拡大の追い風になった。
 要因の第二は、ピアノやオルガンの大量生産方法にベルトコンベアシステムを採り入れたことである。日本楽器の場合、オルガンは昭和三十四年から、ピアノは同三十六年からベルトコンベアによる組み立てを導入、量産によるスケール・メリットの追求が行われた。
 要因の第三は、大量生産を大量消費に結び付ける手法として販売店の組織化とローンによる販売が行われたことである。日本楽器がとった方法は特約店方式と割賦販売方式の導入であった。日本楽器は全国の楽器店や書籍店などと契約を結び、日本楽器の楽器を専門に販売するという特約店方式を採り入れた。これに対して河合楽器は直営店を全国に開設し販売拡大を行った。比較的高価なピアノやオルガンの購入を拡大するために月賦販売を導入し、買いやすさをアピールしたのである。
 第四の要因は海外への輸出の拡大である。特に先進国であるアメリカやヨーロッパへの輸出が拡大していった。日本楽器は年々輸出が増え、昭和三十九年でピアノの輸出量は八千五百台に達し、品不足状態が続いた。また河合楽器も月平均二百台を輸出していた。日本製の楽器の輸出が伸びた理由の一つは、アメリカやヨーロッパのメーカーが、一部のメーカーを除いて小資本経営が多く、生産性が低いため国際競争力を低下させたからである。また、小資本経営による欧米の楽器生産は、車や家電製品のような単純労働による大量生産と違って、かなりの高等技術を身に付けた熟練労働力に依存していた。そのため熟練労働力の確保が困難になったことも影響した。それに対して、ピアノの量産化に成功し国際競争力を獲得した日本楽器や河合楽器は海外での需要を順調に伸ばすことが出来たのである。
 
【電子楽器 電子オルガン】
(2)電子楽器の生産
 戦後の楽器需要はハーモニカから始まり、次第にオルガンに移っていった。オルガンはピアノほどの設備や高い生産技術を必要としないため、次から次へ中小楽器メーカーが乱立し、昭和三十四、五年頃から販売競争が激化した。これに対して大手メーカーは大量生産方式を導入し急増する需要に応じていった。しかし、昭和四十四、五年をピークに生産は減少傾向になっていった。この頃から伸び始めたのがエレクトロニクス技術を利用した電子楽器であった。電子楽器の開発にいち早く乗り出したのが日本楽器であった。『社史』によると、昭和二十七年頃から川上社長の指示により研究開発に取り組み、同三十四年電子オルガン「D―1」を完成させた。この電子オルガンは「エレクトーン」と命名され、メインアンプ以外はすべてトランジスタが使われ、各四十九鍵の二段手鍵盤、十三鍵のペダル鍵盤からなっていた。この「D―1」は演奏家用であったため、その後家庭用の普及版として「B―2」、「C―1」などが販売されるようになり、電子楽器市場を拡大していった。日本楽器のリードに対して、他の楽器メーカーや電機メーカーも追随していった。昭和三十五年、河合楽器は「カワイドリマトーン」を発売、同三十七年に日本コロムビアが「エレピアン」を、同三十八年には松下電器産業が「ナショナル電子オルガン」を販売し、大手電機メーカーも電子楽器市場に参入してきた。このようにして国内の電子楽器市場は、楽器メーカーにとどまらず電機メーカーの参入によって一大市場を形成していった。他方、中小の楽器メーカーは市場からの撤退を余儀なくされたのである。なぜなら、電子楽器は巨額の設備投資を必要とし、規模の経済を活用するためには大量生産方式の導入が前提になるためである。
(3)事業の多角化
 戦後の日本楽器の事業多角化はオートバイ市場への参入で始まった。オートバイは昭和二十八年に開発に着手、昭和三十年二月に「YAMAHA125」を発売した。同年七月にはオートバイ部門を独立させヤマハ発動機株式会社を設立、本格的にオートバイ市場に参入した。さらに、昭和三十三年のFRP材(ガラス繊維強化プラスチック)の開発によりアーチェリー(同三十四年)、ボート(同三十五年)、バスタブ(同三十九年)テニスラケット(同四十八年)を次々に発売していった。さらに、昭和三十七年には子会社として中日本観光開発株式会社を設立し、観光開発やレクリエーション事業へも進出した。日本楽器の成長は量産化プラス多角化によって達成されたと言える。一方、河合楽器も体育用品や家具の生産・販売を開始している。楽器メーカーが多角化していった背景には、楽器そのものの特性がある。第一に、楽器は生活必需品ではないため消費市場そのものが狭隘(きょうあい)であること。第二に、車や家電メーカーは更新需要に支えられ長期にわたって経営を維持することが出来るのに対し、楽器メーカーでは更新需要はほとんどなく企業経営を長期に維持していくためには事業の多角化を進めざるを得なかったのである。
 楽器メーカーによる事業の多角化は地域経済に思わざる効果をもたらした。それは地域内に多様な産業を生み出し、厚みのある産業構造を作り上げるのに貢献したことである。また、部品などの中間財ではなく最終消費財を生産しているため地域に配分される付加価値量が多くなるといったメリットもあった。
 
表2-30 楽器の生産台数と生産額の推移

昭和35年
昭和40年
昭和45年
昭和50年
ピアノ(台)
44,770
145,832
271,304
318,423
オルガン(台)
190,505
376,145
438,183
228,077
ハーモニカ(打)
595,398
366,118
381,926

電子オルガン(台)


125,819
208,912
クラシックギター(本)

384,460
508,071
184,823
管楽器(本)



135,023
電気ギター(本)


137,692
13,733
楽器生産額合計
    (百万円)
9,766
28,662
64,599
140,455
出典:『浜松市統計書』各年版より作成