国鉄浜松工場は昭和三十七年十一月一日で創立五十周年を迎えた。同工場は大正元年に機関車修繕専門工場として発足した。大正期には蒸気機関車の修理にとどまらず、マレー形機関車の組立やC五一形機関車を製造していた。昭和に入ると、蒸気機関車黄金時代の主役であったD五一形やD五二形といった機関車を数多く製造した。他方、東海道線の電化に伴って昭和十九年から電気機関車の修繕を開始した。戦争末期には空襲と艦砲射撃によって壊滅的被害を受けたものの、戦後復興は着実に進み、機関車の大型化の要請に応えD六二形、D五二形機関車の改造工事を行った。その後東海道線の電化の進行に伴い電気機関車の検修が増え、昭和三十六年七月からは電車の検修も始まった。なお、国鉄浜松工場は浜松の金属加工業の発達にも大きな影響を与えた。それは、単に人材を輩出したにとどまらず、地域内への金属加工技術の伝播(でんぱ)にも大きく貢献したのである。
【新幹線車両の検修工場】
昭和三十七年、東海道新幹線(昭和三十九年十月一日開業)の開通を見越して、浜松工場は唯一の新幹線車両の検修工場に指定された。この指定によって昭和三十八年六月から新工場の建設に着手、本線からの引き込み線も含め同四十年十月に完成した。新工場に設置された台車を点検する台車走行試験装置は、電車を二キロ以上走らせて点検するのと同じ効果をこの走行試験装置上で点検することが出来る仕組みになっており、当時世界一の装置と言われていた。しかし、十二両の車両の検修作業を完璧にこなすためには多くの課題を克服しなければならなかった。十二両編成の新幹線車両の検修の難しさとそれを克服する決意を、当時の客貨車課長は次のように述べている(国鉄浜松工場機関紙『はままつ』第九十三号)。
この十二両編成車両の検修作業はいままでの車両修繕に比べ工程管理上非常なむずかしさがあり、即ち、タクト(※注 均等なタイミング)で作業が進むため、一両でも工程が遅れると全体の工程に及ぼす支障が大きいので、各職場は各々決められた工程をよく把握し、充分な管理をされるよう特段の努力が必要である。また、車両部品は従来の車両に比べて非常に多く、作用(業)上、相互の連動関係が複雑になっているので個々の作業が完全であることは当然であるが、各自が作業後に、よく自分の作業を自分で確認しておくことが大切です。現実の条件の下では止むをえなかったところであろうと思うが、ピット線で行なわれる出検調整の段階で不良現象が発生するとその原因、箇所の摘出がむずかしく多くの時間を要しているようである。
お互いに細心の注意をもって、新幹線車両の検修技術を育てあげ一日も早く、一人前の成年期にたっすることに心がけると共に、より高性能のものに進歩させて行くための研究を進めなければならない。
なお、一層の努力を結集し、新幹線車両も浜松工場においては平凡な車両となり、軌道に乗る日の早いことを望んで止まない。
最近のいちじるしい科学の進歩のなかにあって、新幹線車両検修を担当する当工場には幾多の技術開発、研究すべき問題点が無限にあるのではないだろうか。
今後は視野を広め、基礎的技術の吸収はもとより、先行的な開発を図り、技術の自力を高め、当工場が新幹線車両の技術センターとしての役割を果すことが、我々職員に課せられた義務でもあり、役目でもある。そうあってはじめて当工場が新幹線車両の検修をまかせられた使命を全うすることになるものと思われる。
新幹線開通後、新幹線の旅客用電車は四十本、四百八十両あるが(昭和四十一年当時)、浜松工場の優れた技術と設備によって、検修を始めてから出場車の事故はゼロという成果を収めている。これは、大正以来、浜松工場で長年にわたって蓄積されてきた技術水準の高さの結果とも言える。