昭和二十五年に制定された国土総合開発法により浜松地域は天竜東三河特定地域として指定され、天竜川の水力資源を中心に流域の総合開発が推進された。これにより佐久間ダム、秋葉ダムの電源開発が行われ、それぞれ昭和三十一年と三十三年に完成した。三方原用水事業も、この総合開発事業の一環をなすもので昭和二十八年頃から農林省において計画が練られ、同三十三年に全体計画が出来上がった。これによると三方原用水は秋葉ダムから取水、毎秒一六・七一トン(一日最百四十四万三千トン)の水が天竜市・浜北市を経て三方原台地に導水され、一日当たり農業用に百四万トン、工業用に三十万トン、上水道用に十万トンという割合で配分されるという計画であった。農業用水事業は国営、県営、団体営とによって工事を進めることになった。また、工業用水事業は県営で、上水道事業は市営で行うことになった。この用水事業が完成すると、農業用水によって利益を受ける市町村は浜松市、浜北町、細江町、庄内村、雄踏町などで、受益面積も五千六百六十一ヘクタールとされた(表2―31)。工業用水は市内およびその周辺部の工場へ一立方メートル当たり四円五十銭で給水されることになった。また、上水道については四十万人を給水対象人口として計画された。
このような計画により、昭和三十七年二月十八日に着工された三方原用水事業は五年七カ月の歳月と五十七億五千万円(団体営事業まで含めた総事業費は約百七十億円)の事業費を投じ昭和四十二年八月二十八日に通水にこぎ着けた。秋葉ダムの取り入れ口の水門が開くと、二十二キロ離れた三方原台地に向かって待望の水が流れていった。これにより、明治以来の悲願であった「天竜の水を三方原台地に」が実現することになった。
三方原用水の完成により、従来、用水事情に恵まれていなかった三方原台地は長い間の悲願であった稲作経営が可能になった。当初、台地では田畑輪換方式を採用し、稲作を基幹作物として、それに畑作・畜産・園芸等を組み合わせて多角的な経営を実現し農家経済の安定を図ろうとした。しかし、昭和四十年代に入ると米の過剰問題が浮上し、四十五年にはわが国の農業政策の歴史上初めて減反政策が導入された。これにより三方原台地の農業も変質していくことになった。
表2-31 三方原用水による市町村別受益面積
(単位:ヘクタール)
出典:浜松市役所農務課『浜松の農業』昭和36年
台地上 田畑輪換 | 低地水源 転換 | 用水補給 | 畑地灌漑 | 計 | ||
果樹 | 普通畑 | |||||
浜松市 | 3,205.90 | 299.2 | - | 114 | - | 4,278.90 |
浜北町 | 233.3 | 291.1 | - | 179.2 | - | 703.6 |
細江町 | 114.6 | - | 165.6 | 73.2 | - | 353.4 |
庄内村 | 200.4 | - | - | 14.6 | - | 215.0 |
雄踏町 | 42.9 | 194.3 | - | - | 71.7 | 308.9 |
篠原村 | - | 242.4 | - | - | 218.6 | 461.0 |
計 | 3,797.1 | 1,027.0 | 165.6 | 381 | 290.3 | 5,661.0 |
図2-33 三方原用水計画図