その後、新幹線浜松通過コースの市街地高架の北線採用の内示情報を受けて、昭和三十五年七月十八日、期成同盟総会は、北線の実現を決議するとともに、用地買収費や移転補償については市側も相応の負担をすること、用地買収については三十六年十二月の完了を目標に取り組むこと等を決定した。また、七月二十五日からは北線通過地域となる関係各町民の協力を求めるために地区ごとの説明会を開始した。
市側は、再三、国鉄本社を訪れて北線の実現を要望するとともに、それに伴う増加額の市の一部負担について交渉を行った。当時の新聞報道によれば、南線の工費六十億円に対して北線は八十億円で二十億円の違いがあった。市は、この増加分二十億円に対する地元負担金として三億五千万円の支出などを明示した。
しかし、事態の進展はみられないままであった。十月三日の市議会本会議は、市長に地元負担金についての交渉を一任したものの、十一日に至って交渉は決裂、打切りとなった。事態の収拾が困難と見た国鉄は、斎藤県知事に仲裁を依頼し、知事と市長の話合いの結果、交渉は知事に一任されることになった。
その後も交渉は進展をみないままであったが、翌三十六年二月に地元選出代議士の働き掛け等もあって、三月十六日ようやく国鉄本社大石新幹線総局長、斎藤県知事、平山浜松市長の東京での三者会談が実現した。
【高架化と客貨分離】
この三者会談の結果、国鉄側は、高架化の方針を打ち出すとともに、それまでの南北両線に代わる折衷案として新幹線を現東海道線に平行させるとの意向を示した。これを受けて二十日には、市議会の新幹線特別委員会、全員協議会、そして本会議を開いて新幹線の市街地コース・高架案の早期決定と合わせて現東海道線の高架化と浜松駅の客貨分離を決議して、三月二十二日に請願書を関係当局に提出した。
ここにおいて新幹線の浜松通過コース問題は、新たな局面を迎えることになった。