高度経済成長政策により、国鉄の客貨の輸送量は輸送設備の増強を上回って増加した。このため昭和三十六年度から国鉄は第二次五か年計画をスタートさせた。同計画では既述の新幹線の建設のほか、主に輸送力の増強および輸送方式の近代化(電車化、ディーゼル化)が目指された。この結果、東海道線のような電化区間における電車化が進んだ。さらに、四十年からは第三次長期計画が実施され、ATC設置などの保安設備の強化をはかりつつ大都市近郊の通勤輸送の改善、幹線輸送力の増強などが行われた。
浜松駅の利用客は、乗客数で見ると、昭和三十四年の約七百万人から二年後の三十六年には約八百万人、さらに四十年には約九百万人を超えるに至った。浜松駅に向かう列車と浜松駅の混雑は、年々激しさを増していった。
【電車化】
この間、浜松駅に発着する列車の本数とそのうちの電車の本数を時刻表により調べてみると、浜松駅発着の列車は、昭和三十年三月には上り・下りとも三十九本であったが、同三十六年十月には上り六十八本、下り七十一本、電車は同じく上り・下りとも二本から上り四十本、下り四十一本に増加した。特に普通列車の上り十七本、下り十八本の電車化をはじめ準急、急行の増加とその電車化が見て取れる。電車の静岡までの所要時間は約一時間二十分、豊橋までは約四十分となり、機関車牽引列車に比べて、それぞれおよそ二十分と十分短縮された。しかし、昭和四十年には浜松駅に一日平均五万人もの乗客が乗り降りしたため、普通列車については、電車化に加えて増便・増車を行ったものの通勤時の混雑はその後もなかなか解消しなかった。
特急については、特急「第二こだま」(東京―大阪間)のほかに、「あさかぜ」(東京―博多間)と「おおとり」(東京―名古屋間)が浜松駅に停車した。昭和三十七年三月一日には、浜松─東京間を走るビジネス準急「浜名一号」が登場した。上りは午前七時浜松発、午前十一時三分東京着、下りは午後六時三十六分東京発、同十時三十六分浜松着で、東京へ日帰りする市民の足はいっそう便利になった。
東海道線のスピードアップ化に対応して、昭和三十二年三月に浜名湖第一・第二鉄橋の架替え工事が始まり、上り線は昭和三十三年六月三日、下り線は同三十四年十月二十六日には使用を開始した。なお、第三鉄橋はこれより先の昭和二十八年四月に新鉄橋が完成している。
また、昭和三十九年には、東海道線天竜川橋梁の安全調査が行われた結果、架け替えられることになった。同橋梁は、老朽化に加えて昭和十九年十二月の東南海地震による橋脚の亀裂や砂利採取による河床の低下によって危険度が増し、通過列車の著しい増加に耐えられないと判断された。
昭和四十一年十月から工事が最新技術を用いて開始された。まず昭和四十三年五月二十九日に上り線の十九連のワーレン型トラス式橋梁が完成した(『静岡新聞』昭和四十三年五月二十九日付)。上り線開通とともに下り線の工事も開始され、昭和四十四年にそれまで上り線に使われていた大正元年製プラット型トラス式橋梁を新たな下り線に付け替えて工事を終了、五月三十一日から使用を開始した。