[工事線への編入と着工]

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【佐久間線のくい打ち式】
 それから二年後の昭和三十九年四月二十二日、佐久間線は、運輸大臣が指示する工事線に編入され、同年三月に発足した日本鉄道建設公団により建設されることが決まった。こうして同年十二月十六日、実に四十年にわたる遠州地方の悲願であった佐久間線のくい打ち式が挙行された。事業認定されたのは国鉄二俣線遠江二俣駅─飯田線中部天竜駅間約三十二キロメートルで、鉄道建設費用は約八十億円と見積もられた。
 
【佐久間線の着工】
 昭和四十二年四月二十七日、二俣─横山間十三・四キロメートルについて運輸大臣からようやく工事実施計画の認可が下り、同年六月二十日に着工の運びとなった。とはいえ工事予算は、昭和四十一年度一億円、四十二年度以降、各年三億円が投じられたに過ぎなかった。佐久間線が着工すると、国鉄佐久間線建設期成同盟会は、建設工事の早期完成はもとより、工事費などの大幅増額、横山─中部天竜間の工事認可、二俣─浜松間の調査線から建設線への昇格を目指して運動を続けた。
 しかし、急速なモータリゼーションの進展の一方で、特に佐久間線のような地方開発線(A線)や地方幹線(B線)、合わせてAB線は、輸送手段としての重要性の度合いを低下させていた。また、インフレの進行により建設費用は著しく上昇した。そして、いわゆる「我田引鉄」という言葉で揶揄(やゆ)されるような採算を無視した強引な鉄道誘致は、国鉄経営悪化の主要な原因の一つともなっていった。こうして国鉄は、新幹線が開通した昭和三十九年度から赤字に転落した。
 その結果、昭和四十三年九月、国鉄諮問委員会は、既設ローカル線のうち八十三線区(二千六百キロメートル)を自動車輸送に切り替えるのが妥当と指摘するに至った。佐久間線は、この八十三線区に含まれていなかったとはいえ、同線工事継続をめぐる環境も極めて厳しい状況となった。