【二俣電車線】
二俣電車線の輸送人員は、『遠州鉄道四十年史』によれば、昭和三十年度の六百十九万人から昭和三十四年度の六百九十五万人、翌三十五年度には七百五十万人へ増加した。その後、輸送人員は昭和三十八年度に九百万人、同四十年度には一千万人台を突破、同四十四年度以降も九百万人台を維持した。こうした輸送人員の増加の要因は、浜松市北部および浜北市の都市化の進展と人口増加、それに伴う中心部への通勤・通学や買い物の利用客の増加であった。
昭和四十年度には全国中小私鉄の三分の二が赤字経営を余儀なくされていたが、運賃の値上げだけでこれに対応することは困難であった。以下で述べるように遠鉄では施設の近代化や要員の省力化を図ることが必要とされた。
遠州鉄道二俣電車線は、サービス向上の一環として通勤・通学用輸送に対処するため昭和三十五年から三十八年にかけて大型全鋼製車両(定員百四十~百五十人)を十二両増備し、二両編成で運転した。昭和三十五年二月には電気機関車を増備し、貨物用動力車を五両とした。
【二俣線遠江二俣駅まで乗り入れ】
また、昭和三十六年五月には、国鉄二俣線遠江二俣駅まで乗り入れていたディーゼル列車を、同遠江森駅まで延長して、同方面の通勤・通学利用者の利便を図った。しかし、二俣線乗り入れは昭和四十一年十月、遠江森駅まで延長後約六年で廃止となった。
【赤い車体の誕生】
なお、二俣電車線の車体は、昭和三十六年十二月、それまでのクリーム色とグリーンのツートンカラーから赤色に変更された。
二俣電車線の旅客輸送の増加、車両の大型化、運行回数の増加等に伴う電力使用量の増大に対応して、昭和三十年の西ヶ崎変電所(七百五十キロワット)の新設を皮切りに無人操作の変電所を新増設した。また、同三十六年には架線電圧の昇圧(六百ボルト→七百五十ボルト)を図るなどした。