[道路計画の策定]

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【モータリゼーション 自動車台数】

図2-37 浜松市の自動車台数の推移

 高度成長期には、国民の予想をはるかに超えてモータリゼーションが進展した。浜松市内の自動車台数は、昭和三十五年以降も増加傾向をたどった。『浜松市統計書』(図2─37参照)によれば、昭和三十五年から同四十七年までの十三年間に、乗用車は九百四十二台から四万四千二十二台へ約四十七倍、トラックは二千百二十三台から二万八千百九十六台へ約十三倍、軽自動車(二輪を含む)は、五千九百二十八台から三万三千二百四十一台へ約六倍増加した。この間に最も増加率が高かったのは乗用車で、同台数は昭和四十五年にトラック台数を凌駕(りょうが)し、その後、大きく引き離した。さらに昭和四十六年には軽自動車台数も上回り、四十八年に原動機付自転車の台数を凌駕した。まさにマイカー時代の到来を告げる出来事と言ってよいものであった。
 しかし、乗用車をはじめとする自動車台数の急増に比して国道一号線など浜松地域の幹線道路は、道幅が狭く整備も遅れがちであったため深刻な交通渋滞を引き起こすことになった。これに対応して、国や県・市は、地域開発計画と関わらせながら高速自動車道路の誘致、主要幹線道路などの整備やバイパスの建設、新たな道路計画の立案、既設道路の改修・拡幅・舗装、橋梁の改築などを進めていった。また激増する交通事故への対策として、新たな交通規制や交通安全施設の設置などに取り組まねばならなかった。さらに自動車輸送の増加とマイカー時代の到来は、公共交通機関の在り方をも大きく変えていくことになった。
 昭和二十一年に戦災復興特別都市計画事業の一環として、特別都市計画街路の決定が行われ、道路の改良・舗装工事等が進められた。また浜松駅周辺については、昭和三十五年からは都市改造事業の一環として市内幹線道路を中心に整備が行われた。とはいえ、昭和三十年代に入ってからの浜松地域の急速な産業発展と交通量の増加は、長期的な見通しに立った道路整備を求めていた。
 
【都市計画街路】
 こうした中、浜松市は大正十五年につくられたものを見直して本格的な都市計画街路を作成し、昭和三十七年三月二十二日に政府の認証を得て決定した(図2―38参照)。この計画は、浜松市が三年間を費やして策定したもので、同市の県西部の基幹都市としての発展と人口七十万人を予想し、この発展に備える交通路の開設と各種産業基盤の造成を狙いとしたものであった。前年には、三方原用水土地改良区が設立され新幹線コースが確定して、いずれも着工段階に入っていた。また後述するように、浜松地域の通過コースは未定であったが東海道高速自動車道路の建設決定も時間の問題となっていたことなど、市の都市計画環境が整いつつあった。
 この都市計画街路によれば、内・外環状線、八本の放射状街路、国道一号線バイパス(後述)、東海道線へのこ線橋の設置など、道路幅五十メートルから十一メートルまでの幹線道路四十七本(総延長二百三十三キロメートル、うち国道二十五キロメートル、県道十六キロメートル、市道百九十二キロメートル)を二十年間にわたり、事業総額二百九十億円をかけて整備することになっていた。以後、都市計画街路の街路数、路線名・路線区間等に変更はあるものの、市の道路整備は基本的には同計画に基づいて行われることになる。

図2-38 浜松都市計画街路決定図