以下では市内の国道および主要な都市計画街路の整備状況を見てみよう。
国道一号線に関しては、中野町─子安町(植松町)間の一号線の付け替え(昭和三十四年四月十六日開通)に続く市内国道一号線の道路改良、そして篠原村新国道の建設(可美村─舞阪町間の付け替え、同三十六年三月二十八日開通)や成子─森田町間の道路付け替えとこ線橋の建設(『浜松市史』四 七百二十二頁参照、同三十六年四月二十四日開通)、などが行われた。また、市内中心部の交通地獄を緩和させるためのバイパス建設(後述)も行われることになった。
【天竜川鉄橋 新天竜川鉄橋】
国道一号線の天竜川鉄橋(昭和八年竣工)は、老朽化した上、昭和十九年の東南海地震の影響で橋脚に亀裂が生じ、交通量の増大と車両の大型化に耐えきれなくなったため、昭和三十七年十二月から旧橋の上流約九十メートルの位置に新天竜川鉄橋の建設が進められた。昭和三十九年十二月二十五日に上り線が開通、翌年八月十九日に全面開通した。
【自動車街】
なお、中野町─子安町(植松町)間に新道が出来ると、薬師・篠ケ瀬・和田・宮竹・子安の各町約二キロメートルの区間にいわゆる「自動車街」が形成された。
浜松市内と周辺地域を結ぶ主要な放射線街路である県道浜松─飯田線、浜松─静岡線の国道昇格(『浜松市史』四 第三章第六節第七項参照)に続いて、昭和三十七年四月に県道浜松─恵那線(約百二十八キロメートル)が、国道に昇格し、国道二五七号線となった。
とはいえ、これら昇格国道といえども整備は不十分であった。昭和四十年九月八日から九日に行われた国、県、市共同の道路別の交通量調査によれば、天竜市方面、三方原方面の交通量が増え、とりわけ飯田浜松線(通称二俣街道、浜松赤十字病院前)や恵那浜松線(通称姫街道、静岡大学工学部前)の増加率は、国道一号線のそれを上回り、日常的な交通渋滞に見舞われていた。
【バイパス】
このため市では、①助信三方原線のうち中沢町─幸町間(二・五キロメートル、通称住吉バイパス)を開通させ、恵那浜松線と飯田浜松線を結んで住吉町以北から中心部へ下る交通をこれへ移す、②下池川町─中沢町間(九五三メートル、通称天林寺バイパス)を開通させ市役所前大通り(伝馬西ケ崎線)を助信三方原線に結んで、三方原方面から中心部へ出る交通をこれへ移す、という工事を開始した(図2─39参照)。
図2-39 助信三方原線伝馬西ケ崎線建設計画図
このうち下池川町─中沢町間は昭和三十九年度を初年度とする国の新道路整備五カ年計画に組み入れられて工事を開始、昭和四十五年十月一日に開通した。また中沢町─幸町間は、県道路公社により昭和四十一年から工事が開始され、同四十四年春には浜松城北工業高校前までが完成、同年九月に浜松城北工業高校前までの舗装工事を開始した。
市の中心部と浜名湖の観光地・舘山寺を結ぶ県道は、昭和三十五年四月に浜松舘山寺線(県道二二四号、現在の県道四八号約十四キロメートル、通称舘山寺街道)に認定された。同線の改良・舗装工事は、昭和三十六年度から始まった。改良工事としては和地町や伊左地町地内などの急カーブの直線道路への付け替え、拡幅工事などが進められた。遅れていた舗装工事も昭和四十五年に全面舗装された。
舘山寺への南北からのルートでもあった主要地方道、細江舞阪線については、舗装を進めつつ国鉄東海道線と交わる踏切による渋滞や事故を解消するため、馬郡こ線橋の建設工事が昭和三十八年に開始され、昭和四十二年十月に完工した。
昭和三十五年には天竜浜松線(通称笠井街道)と雄踏浜松線(通称雄踏街道)が、それぞれ県道二一一号、二二二号となり、天竜浜松線は昭和四十三年に舗装を完了した。
なお、戦後復興都市計画事業を一部継続しつつその他の都市計画街路も整備されていった。