昭和三十二年に名神高速道路の建設工事が開始されると、これに接続する東京─名古屋間の高速道路着工の必要性が叫ばれるようになった。路線の選定をめぐっては、大別すると中央道案と東海道案、東海道海岸線案の三案が発表された。やがて中央道と東海道の両道はともに整備されることになったが、中央道は一足早く昭和三十二年四月に国土開発縦貫自動車道建設法として公布された。
これに対して神奈川、静岡、愛知三県選出国会議員らは、東海道第二国道建設促進議員連盟をつくり議員立法を目指して運動を展開した。この結果、東海道幹線自動車国道建設法は、中央自動車道の予定路線を定める法律案とともに、昭和三十五年六月十七日衆院本会議、七月十五日参院本会議を通過し、同月二十五日公布された。間もなく建設省、大蔵省、日本道路公団では、東海道幹線自動車国道を三十六年度から始まる新道路五カ年計画において完成するという積極方針に転じた。
図2-40 高速道路各路線案
【静岡─豊川間のルート】
こうしたなか唯一、未決定のままであった静岡─豊川間のうち焼津─三ケ日間(浜松地区)の路線の指定については、山手案(建設省案=下図のA)、最短距離案=中央案(建設省案=B)、海岸線案(産業計画会議案=C)などの比較線案があり検討が続けられた。建設省が中央案を有効とするのに対して、静岡県は、天竜川以東のルートについては、当初、南部の開発を意図した海岸線案に近い案を主張した。昭和三十六年からの第六次総合開発計画の基本図では、この考え方が踏襲された。しかし、浜北町を中心とする北遠地方の各町村は、昭和三十五年十一月五日に東海道幹線自動車道路誘致期成同盟会を結成、建設省の北部山手案を誘致するよう申し合わせるとともに陳情を開始した。
浜松市は、山手案には距離を置きつつも、海岸線案、中央案とも同市の希望地点を通るため独自の主張を打ち出さず、成り行きを静観する態度を取った。その後県は、建設省と調整を行い中央案と海岸線案の妥協案とも言える南部案(D)まで歩み寄りをみせたものの、ルートの決定までは至らなかった。
その結果、建設省は県側との調整に基づいて、最短距離案(B)を焼津─袋井間で若干南下し、その後中央案に合流するようルートを調整した、中央案と南部案の折衷案とも言うべき、最終案(図のE)を提案した。昭和三十八年六月十五日に河野一郎建設大臣がルート決定のために来県して、建設省の最終案について現地検分を行い、その通り決定することになった。政府は八月十六日の閣議で東海道幹線自動車国道建設法施行令の一部改正令を決定、これにより未決定だった静岡─豊川間(百八キロメートル)のルートがようやく決まり、東京─小牧間全線三百四十六・五キロメートルの建設路線が正式に決定した。そして、建設大臣の施行命令により、東名高速道路は昭和四十三年度の完成を目指して、昭和三十八年十一月十一日にいよいよ着工の運びとなった。
実際の浜松市内のルート(十五・二キロメートル)は、昭和三十九年九月に住吉町に開所した日本道路公団静岡建設局浜松工事事務所の測量調査により進められることになった。浜松市は、昭和三十八年十月、市議会に東名高速道路特別委員会を設けて、とりわけインターチェンジの設置場所等の決定に対応することになった。
【浜松インターチェンジ】
昭和三十九年に入って、公団側と市側はインターチェンジの設置場所をめぐって調整を重ねた。公団側は一級国道に近く、用地買収も安価に済むことなどを理由に白鳥町地内を候補地としたが、市側は東に片寄り過ぎるという理由で反対した。同年七月一日公団は市内ルートを正式に発表し、その後インターチェンジの設置場所も将来浜松の西にインターチェンジを追加設置することを含みとして上石田町・下石田町・白鳥町に決定した。間もなく当初予定になかった三ヶ日インターチェンジの建設は決定されたが、浜松─三ヶ日間のインターチェンジはお預けとなった。
東名高速道路の路線中で工事が遅れていた地区の一つであった浜松地区の工事が開始された。橋梁等を除いて東西二地区からなる浜松工区のうち、西工区は昭和四十一年十月、東工区が同年十二月に着工した。それぞれの工区の構造別内訳は東工区十キロメートルが切土三キロメートル、盛土六キロメートル、橋梁などその他一キロメートル、西工区八キロメートルは切土三キロメートル、盛土五キロメートルで、大量の工事用土砂や資材が運搬された。両工区の工事は順調に進み、ともに同四十四年一月に竣工した。
【天竜川橋 浜名湖橋】
天竜川橋(延長約千七十一・四メートル)の架橋は、袋井工事事務所が担当で、昭和四十一年三月に着工、昭和四十三年十一月に竣工した。また、舘山寺付近で浜名湖を渡る浜名湖橋(延長六百二・七メートル)は、浜松工事事務所が担当で、昭和四十一年三月に着工し、地質構成の意外な複雑さに計画は再三変更を余儀なくされたものの、昭和四十三年十二月に竣工した。なお、浜名湖橋の西側には浜名湖サービスエリアが建設された。
東名高速道路の静岡─岡崎間は、昭和四十四年二月一日に開通した。開通式は浜名湖サービスエリアで静岡・愛知両県知事、日本道路公団総裁をはじめ関係者五百人が参加して開催され、ブルーインパルスの祝賀飛行が式を盛り上げた。同年五月二十六日には全路線の開通を見て、足柄サービスエリアで全線開通式が挙行された。
【内陸コンテナ基地 トラックターミナル 流通業務センター】
浜松の産業界は、高速道路という新たな輸送手段に大きな期待を寄せた。昭和四十三年、下石田町、上石田町一帯に設置されるインターチェンジを陸の港と位置付け、隣接して内陸コンテナ基地、総合産業センター(後の総合産業展示館)、トラックターミナル、倉庫団地、関連サービス施設を含む流通業務センター(約三十二万三千六百九十平方メートル)の建設を計画、十二月に浜松商工会議所内に浜松流通業務センター建設推進会議を設置して、準備を進めた。昭和四十五年六月用地造成に着手、同四十九年七月完成した。同四十六年五月には進出第一号の会社がオープンし、その後、進出企業・事業所も増えて四十七年七月末までに十八社が進出した。同四十八年四月、インター周辺の下石田・上石田・白鳥・松小池・貴平の各町の一部は新しく流通元町と名付けられた。
浜松商工会議所は、昭和四十四年九月、浜松流通業務センター内に浜松内陸コンテナ基地(別称インランドデポ、約三万三千平方メートル)を建設するよう県へ意見書を提出した。竹山県知事はこれに同意し、翌四十五年度に着工となった。同施設は、海運荷役のコンテナ化と同四十五年の清水港コンテナクレーンの供用開始に対応するもので、輸出貨物のコンテナ詰めをはじめ一切の輸出手続きを行い、東名高速経由で清水港から輸出するものであった。昭和四十五年十二月十一日起工式が行われ、翌年六月二十九日に開業した。なお、同基地は昭和四十八年六月、港湾指定を受け、清水港の港湾施設として認可された。
なお、流通業務センター内に協同組合浜松卸商センターの建設が計画されたが用地買収が難航したこともあって、浜松バイパス(後述)沿いに場所を変更することになった。