国道一号線の交通難解消のためには、既述の東海道高速自動車道の実現と国道一号線のバイパス建設が急務と考えられた。国道一号線沿いの植松町―成子町間の五キロメートルは市街地を形成しており、このため交通容量の二倍を超える交通量と、道路幅を狭める路上駐車によって混雑の度を加え、交通事故も頻発していた。
国道一号線浜松バイパスの開設を国に働き掛けるため、昭和三十六年三月に県知事を会長とする国道一号線バイパス建設期成同盟会を結成して市役所に事務局を置いて、陳情を重ねた。また並行して、市は建設部が中心となり、六案からなるバイパス建設構想をつくって国や県と折衝した。
その結果、南部農業地帯を通る案が理想的なルートとして、昭和三十六年十一月に建設省の了承するところとなった。それによれば、バイパスは、延長十六・六〇五キロメートル、和田地区の安新町から南下して飯田、芳川、白脇、新津の各地区を通り篠原地区で現国道一号線に接続する計画で、外環状線の一環としての位置付けも与えられることになった。
市は、昭和三十六年度を初年度とする国の新道路五カ年計画にバイパスを組み入れるよう運動を展開するとともに、その受け皿づくりとして関係地域に土地改良組合を設立、浜松市開発公社の手で用地買収を先行する方針を決定した。測量と土地調査は、昭和三十七年一月十一日から開始された。同年五月中旬からは買収に先立つ地区説明会を開くとともに、用地買収の対象となる地区への土地改良区設立を促した。
昭和三十八年度は東京オリンピックに備える緊急道路事業のため調査費の計上にとどまったものの、国道一号線浜松バイパスは国の道路整備計画に編入される見通しとなった。このため同年九月の定例議会で浜松市議会内に国道一号線バイパス促進特別委員会を設置して早期編入を陳情するとともに、市の予算に用地買収の立て替え費を計上して、用地の買収を開始した。バイパス建設工事は、昭和三十九年度に国の新道路五カ年計画事業に編入されることになった。
国道一号線浜松バイパスは、昭和四十年八月十七日、建設省の事業認定を受けて着工した。昭和四十一年初めからは芳川町から四本松町にかけての四百四十メートルの区間を皮切りに本格着工に入った。昭和四十四年秋までに、山側二車線を完成させて第一期工事を終えた。同バイパスは、幅員三十八メートル、六車線が計画されていたが、当面幅員十一メートル、二車線でスタートすることになった。同年十月二十七日、開通式が安新町の一号線東側取付口で行われ、午前十一時四十五分の打ち上げ花火を合図に一般車両の供用を開始した。
バイパスの開通は国道一号線の交通量を予想以上に緩和させる役割を果たした。開通して一カ月後の調査では、開通前の国道一号線の交通量は一日四万五千台であったが、そのうち一日平均一万五千台がバイパスに流れ、国道一号線の渋滞はほぼその分だけ緩和されて、交通事故数も大幅に減少した。
その後もバイパスの交通量は増え、昭和四十五年浜松市は第二期工事としてバイパスの拡幅と安新町や篠原町の国道一号線との接点や国道一五〇号線との交差点の立体交差化など残存事業の早期完成を、建設省などに陳情した。これらの一部については、第二期工事として同五十一年に竣工をみた。なお、昭和四十八年四月から浜松バイパスは国道一号に格上げされ、旧国道一号は国道一五二号や同二五七号になった。
図2-41 国道バイパス構想図