[深刻になった交通死亡事故]

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【交通事故】
 昭和三十年代に入ると交通事故の発生件数は急増し、交通地獄、交通戦争と言われるまでに重大な社会問題となった。浜松地区〔浜松中央・東警察署管内、可美村・雄踏町、浜北町(浜北市)を含む〕の事故発生件数および死者数を見ると、昭和三十三年にそれぞれ九百九件、五十一人だったものが、同三十四年には事故発生件数は一挙に二千二百三十三件、死者数八十五人となった。表2―40からも明らかなように、交通事故発生件数は、その後、急速に増加し昭和三十九年には五千五百件を超え、わずか五年の間に二倍以上に増加した。その後わずかな減少を見せるものの再び増勢に転じ、昭和四十五年には八千六百件を超えてピークを記録した。これに伴い交通事故による傷者数も、昭和四十五年には六千人を突破した。
 また、交通事故による死者数は、昭和三十五年には九十七人、同三十六年には百人を突破した。昭和四十三年までは百人前後、その後も若干減少したとはいえ、同四十七年まで毎年八十人前後という高水準を維持した。
 
【県下一の交通事故多発地帯】
 昭和三十六年の浜松地区の交通事故数は、件数では静岡地区の三千八百三十一件を下回ったものの、死亡者数では静岡地区の五十九人、清水地区の七十四人、沼津地区の五十九人をはるかに凌ぐ、百五人であった。この数字は、県全体の十六%を占め県下一であるとともに、負傷者を含めると人口比では全国第一位というものであった。昭和三十八年以降四十六年までを見ても、浜松地区は、県下交通事故件数の約十六%を占め、死亡者数では、昭和四十四年を除いて一貫して県内トップ、平均約十四%を占めた。特に浜松はオートバイに関わる事故が多かった。このため浜松市は、全国屈指の交通事故多発地帯という汚名を着せられることになった。
 交通事故による死亡者数の増加は、もちろん全国的傾向で、昭和三十四年に初めて一万人を突破して以降、増え続けた。このため政府は、道路や交通安全施設等の整備を進めるとともに、昭和三十五年十二月には道路交通取締法に替えて道路交通法を施行して規制や取り締まりを強化した。また、車両制限令(昭和三十六年)や自動車の保管場所の確保等に関する法律(昭和三十七年)など交通規制や交通安全等に関わる新たな法律を制定した。浜松市においても、国や県の交通政策と連携しつつ、交通安全施設の建設や交通安全運動などが展開された。
 浜松市では、交通事故の深刻化に伴って市ぐるみの交通事故防止の必要性が叫ばれた。昭和三十七年四月十六日、市、市議会、警察二署、町を住みよくする会、自治会連合会、建設省機関、県土木事務所、同陸運事務所、市教育委員会、商工会議所、交通安全協会など幅広い組織が結集して、浜松市交通事故防止対策会議(会長・平山市長)が結成された。
 
表2-40 静岡県と浜松中央・東署管内の交通事故件数、死者・傷者数

件数
死者数
傷者数
  県  
浜松中央
 ・東署
  県  
浜松中央
 ・東署
  県  
浜松中央
 ・東署
昭和33年
5480
909
330
51
5066
918
34年
6884
2233
470
85
6352
1659
35年
16488
2931
576
97
11431
2115
36年
20717
3467
640
105
13382
2502
37年
23660
3598
542
94
14286
2465
38年
29461
4856
614
104
16903
3114
39年
32512
5551
708
106
19093
3501
40年
31743
5040
628
94
19257
3456
41年
33735
5388
716
97
22592
3945
42年
38133
6403
702
105
27276
4847
43年
42569
7264
633
90
31492
5484
44年
48716
8108
713
76
34919
5725
45年
52189
8621
691
86
36730
6127
46年
49504
8021
620
78
32021
5251
47年
46414
6850
583
80
28186
4530
出典:『静岡県統計年鑑』各年、『浜松市統計書』各年版より作成
注:昭和36年の死者数・傷者数は、『浜松市統計』昭和40年版までそれぞれ
  112人・2495人となっているが、昭和41年版からは修正され、105人・2502
  人となっているため、これを採用した。
注:発生件数は人身・物損事故の総件数。

 
【市民交通指導隊】
 これと並行して地域や職場を母体にした交通安全運動が次々に展開された。特に昭和四十三年五月には、それまで各地区で個々に行われていた交通指導隊の活動を統合して浜松市民交通指導隊(約二百四十人)が結成された。同指導隊は、ボランティアとして朝夕の通勤通学時に交通整理や指導を行った。このほかにPTA等の団体も含めると、毎日三百人近い人たちが街頭に立って交通事故の防止のために活動した。