【ダイヤル即時化】
浜松局では、昭和三十三年十一月に浜松─東京間の手動即時通話が実現した。同三十五年四月には、浜松─名古屋間、浜松─大阪間の通話がようやく手動即時通話となった。それまでの両区間の市外電話取り扱いに際しての待ち時間は、名古屋でも特急で二十三分、至急で一時間三分、普通で二時間三十分という状態であった。さらに、これら大都市とダイヤル即時通話になるのは、名古屋が三十六年十一月、東京が三十七年十一月、大阪が三十九年九月のことである。
浜松と県内の他市町とのダイヤル即時化は、まず自動局になった局との間で始まった。例えば、三十六年十一月静岡・焼津・清水、三十八年二月磐田、四十年一月袋井、同年三月島田・金谷、同年四月掛川・菊川などとの間で進んでいった。なお、こうした即時化に並行して進められた全国的な即時網の整備に対応して三十八年三月には浜松と全国百一の主要都市へ手動即時通話が、四十一年十二月には全国主要都市へのダイヤル即時通話が開始された。ダイヤル即時通話の実現したことを記念して各地で記念式や記念通話などの催しが開かれ、一方で手動(一〇三)方式は漸次姿を消していった。
【電話積滞解消】
電電公社は、地方都市および大都市周辺の電話積滞解消を目指したが、浜松市でも既述のような急激な電話需要の増加のため、電話加入を申し込んだにもかかわらず待たされる状態が慢性化し、その解決が急がれた。特に住宅電話については深刻であった。こうした状況を受けて、昭和三十六年度に北部高台方面に約三百本、昭和三十七年度には天神・佐藤などの東部および伊場・森田などの西部方面に六百八十本分の回線を増設したが、既存の市内局を基礎とした回線の増設では限界があった。
【分局・分室、交換局の設置】
昭和三十七年に千六百本だった積滞数は、昭和三十九年には三千五百本、昭和四十一年には六千五百本へ急増した。このため、昭和三十七年加入数の約六倍にあたる十万件の加入を目指し、浜松電報電話局の施設を増強する一方、市内に合計五つの分局・分室、交換局の新設が計画された。これらの施設は次々に着工され、昭和三十九年二月、浜松局住吉電話分局(局番七一局、収容可能設備八千七百本)が開局、昭和四十二年一月には市外局をも兼ねた浜松局向宿電話分室(局番六一局・六二局、収容可能設備一万一千本)、増楽電話交換局(局番四七局、二千百本)、同年五月、浜松局積志電話分室(局番三四局、収容可能設備三千五百本)、同年十月、三方原電話交換局(局番三六局、収容可能設備三千本)がそれぞれ開局(室)した。
【ダイヤル化】
この結果、市内全域のダイヤル化は大きく進展し、昭和四十七年十一月二十九日に都田電話交換局が開局することにより完了した。一方この間、戦後新たに浜松市に編入された地域では浜松局との通話は市外扱いになっていたが、これを浜松局に編入すると同時に自動式に改め、新たに設置された電話分局・分室、交換局に編入していった。