[有線放送電話の普及と団地電話の開通]

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【有線放送電話】
 昭和三十四年の都田農協有線放送電話に続いて、同三十七年には豊西・神久呂・三方原開拓農協の各農協地区に有線放送電話が開通した。昭和三十八年六月には、三方原農協の有線放送、同四十年二月には、芳川・河輪・五島農協地区を区域とする南陽有線放送電話といった規模の大きなもの(千八百五十戸加入)が開通した。この頃までに長上・和地・白脇・浜松開拓・篠原に有線放送電話ができ、合計で約一万九百戸が加入した。その後も飯田・新津・吉野・伊佐見地区にも普及し、市内の農業地域の大半が有線放送電話を持つことになった。
 一方、昭和三十九年一月から有線放送電話接続通話制度が施行され、有線放送電話施設と電電公社線との接続が可能となった。接続通話契約は、浜松市内でも昭和四十一年には浜松開拓農協(収容局は住吉局)、浜松市白脇農協(同向宿局)、浜松市飯田農協(同向宿局)を皮切りに、その後、その他の地区の有線放送電話にも普及していった。
 
【団地自動電話】
 昭和四十年代に入って各地に大きな住宅団地が造成されると、加入者の急速な増加と電話需要に対応できない状態が生じた。こうした団地の電話需要に対応するため、遠州浜団地や中田島団地には昭和四十三年三月に団地自動電話が設置されたが、昭和四十四年以降は一般の秘話式二共同電話(自動交換機から各戸までの電話線を一回線で二軒使用)へ移行した。