経済企画庁が昭和三十三年末に発表した「景気後退下の国民生活」という報告書によると景気後退にもかかわらず個人所得が増加し、消費支出の面では耐久消費財と教養、娯楽関係への支出が著しく増加し、衣食関係では高級化が目立ったという。また、この高級消費化傾向を端的に表しているのが、テレビの驚異的普及ぶりであったと『広報はままつ』昭和三十四年一月二十日号は報じている。
図2-43 自動車保有台数とカラーテレビ契約件数
【乗用車】
オートバイは昭和二十年代に急速に普及していったが、乗用車は約十年遅れて昭和三十年代から四十年代に普及していった。昭和三十年代には、オートバイやスクーター、電車、バスなどで通勤していた勤労者が、四十年代になって軽自動車や小型の乗用車に乗り換えて通勤する風景が市内の随所に見られた。図2―43に見られるように、原付自転車は昭和四十二年度から四十七年度にかけて約五万六千台から五万四千台ほどで推移している。しかし、同期に軽自動車は約二万千台から約三万三千台に、乗用車は約一万五千台から約四万四千台に増加している。なお、乗用車は昭和四十年代半ばから急速に伸びていた。市民の車の消費動向は、原付自転車からオートバイ、そして軽自動車、さらに乗用車というように、より高価な耐久消費財に向かっていったことがうかがえる。
また、高度経済成長期には嗜好品の酒類・たばこの消費も大きく増大した。なお、酒類では昭和三十年代半ばには酒類の消費量の首位は清酒からビールに変わっていった。また、昭和四十年代半ばには、たばこと肺ガンの関係が世間で知られるところとなるが、日本専売公社浜松出張所管内でのたばこの販売金額は増大している。
【消費生活】
このような消費生活の急速な向上の背景には、高度経済成長による市民の所得の増大や次々に新しい製品が登場して、市民の消費意欲を喚起したことなどが考えられる。
昭和二十九年十二月から三十二年六月にかけての神武景気の後、三十二年七月から翌年六月にかけての「なべ底不況」という景気後退を挟んで、昭和三十三年七月から三十六年末まで岩戸景気という好景気が続き、その後、所得倍増政策と東京オリンピックを控えた公共投資需要の伸びで好況は持続した。その後、オリンピック後の若干の景気後退を挟んで、昭和四十年十一月から四十五年七月まで続いたいざなぎ景気によって、日本全体で個人所得の増加が継続した。その後も大阪万国博後の公共投資の減少、昭和四十六年後半に展開されたニクソン大統領による金ドル交換停止、スミソニアン協定等によって若干の景気後退が余儀なくされたものの、昭和四十八年十月の第一次石油ショックまで好況が継続している。
【物価上昇 貯蓄】
この十数年連続した好景気は、年率数%程度の物価上昇を引き起こしたが、市民の個人所得も年率十数%も上昇したため、家計支出も年率で数%から十%ほど上昇した。勤労者は工業をはじめとした復興した産業が生み出した製品を購入する消費者ともなっていった。また、市民とりわけ勤労者は将来の支出に備え、毎年収入の十数%は貯蓄に回していった。これらの貯蓄は銀行や信用金庫を介して企業の設備投資資金となっていった。また、勤労者の所得の上昇には、後述するように、この時期の労働力不足に対応しようとした企業側による待遇改善努力とともに労働組合運動の高揚も大きな力となっていた。
【移動消費者センター車】
高度経済成長に伴う物価上昇に対抗して、勤労者は賃上げを大きな運動方針とした労働組合運動を行うとともに、消費者として廉売品を取り扱う生活協同組合運動を立ち上げていった。また、行政としても、昭和四十六年から市は消費者保護を目的として、移動消費者センター車「ほほえみ」による巡回指導や消費生活モニターによるアンケートや消費生活の動向調査等により賢い消費者の育成に努めた。
生活にゆとりが出来た高度成長期には、都市生活者だけではなく近郊の農村部の人々にとっても都心のデパートの屋上遊園地と大食堂が子供連れの家族にとっては休日のぜいたくな楽しみであった。昭和三十五年六月に松菱百貨店の全館冷房が完成すると、さらに楽しみが増えていった。
【郊外型のスーパー】
なお、小さなスーパーマーケット・主婦の店が出来たのが昭和三十四年であったが、大きな駐車場を持つ郊外型のスーパー・ユニー浜松泉町ショッピングセンターが出来たのは昭和四十八年であった。郊外型の大型スーパーが一店出来たものの、この頃はまだ中心部にはデパートや大型スーパー、寄合百貨店、月賦百貨店や一般の小売店も多く、消費者の休日の買い物は街中に出掛ける傾向が強かった。