[大規模な団地と分譲マンション]

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【中田島団地 鷺の宮団地 遠州浜団地】
 高度経済成長によって、衣食住の内の衣食の分野での生活が豊かになり、さらにテレビや冷蔵庫など耐久家電製品がほとんどの家の中に入ってきた。しかし、人口の都市部への集中や世帯の細分化(核家族化)により住宅の数の不足はなかなか解消できず、昭和三十二年度から同三十五年度にわたり、中田島団地に県・市の公営住宅五百六十五戸を建設した。中田島団地はサンドスキー等の観光地として開発中の中田島海岸に隣接し、市中心部から市営バスで二十分と交通の便も良く、緑の中での住環境の整備も行き渡っているとして、昭和三十四年、建設大臣から特に優良な団地として表彰された(『広報はままつ』昭和三十四年八月五日号)。この後、昭和三十六年度から同四十年度に小池町から大瀬町にかけての鷺の宮団地に市営住宅四百五十八戸、県営住宅百七十一戸、分譲住宅百四十九戸、一般分譲地八十六戸、総戸数八百六十四戸が建設された。しかし、昭和四十年代になっても浜松市の住宅不足は七千戸に上り、住宅難は深刻であった(『市勢要覧』昭和四十一年版)。この打開策として県と協力して昭和四十年に着工したのが当時県下最大の遠州浜団地(当初は五島住宅団地と言われていた)であった。同団地には昭和四十九年度末までに三千百戸が建設された。しかも、電気・上下水道・ガス・汚水処理場・電話中継所等の諸施設が完備する当時県下一のマンモス団地であった。団地内には各種住宅(市営、県営、公団、県住宅供給公社、産業労働者住宅、一般住宅、その他)のほかに、小学校・幼稚園・商店街・公園・バス車庫等も建設された。
 
【湖東団地】
 しかし、これでも不足しており、昭和四十一年三月から湖東団地の用地買収に着手、同四十三年度から宅地造成と分譲を開始、同四十九年度末までに市営住宅六百十一戸を含む千三十二戸の住宅が完成した。高度成長期にはこのような公営住宅や分譲住宅などの建設とともに、民間企業による団地や分譲住宅の建設、市民の旺盛な自力建設(持ち家)が行われ、官民そろって一世帯一住宅を目標にした住宅難の解消策が推し進められていった。
 
【都市ガス プロパンガス】
 都市ガスは戦後復興期から高度成長期にかけて都心部を中心に普及していたが、これらの郊外の大規模な住宅団地でもエネルギー源として供給を増やしていった。昭和四十三年には市の全世帯の約四分の一の約二万五千戸で使うまでに普及していた。なお、市内の中心部に近い郊外や農村部では、手軽で経済性も高いことからプロパンガスの普及が目覚ましく、六万八千戸で使われていた(『新編史料編六』 七社会 史料9)。
 
【分譲マンション】
 東京で民間の分譲マンションが販売されてから約十五年後の昭和四十年代中頃から浜松でも分譲マンション時代が始まった。幸町、蜆塚、山手町などで建設が始まる(『新編史料編六』 七社会 史料12)。高度成長が生み出した所得上昇が、高価な物件を購入できる顧客を生み出した一方、昭和四十六年に制定された勤労者財産形成促進法が勤労者の持ち家を増やしていった。なお、これらの分譲マンションの価格は四百万円ほどであり、当時のサラリーマンの給与ではとても買えるものではなかった。これ以降、所得の増大でマンションが建設されるようになる。