【集団移住促進都市】
講和条約が発効した昭和二十七年にブラジルへの移民が再開された。その後、ブラジルやボリビアなどの日系社会が現地政府に日本人移住者枠を要請し、日本政府も渡航費を補助するなどして移民が本格的に行われるようになった。浜松からも昭和二十八年に一家族四人がブラジルに移住している。政府は昭和三十一年から同三十八年にかけて中南米諸国と移住協定を結び、農家の二三男対策や失業者救済のために海外移住を奨励した。しかし、大金が必要という噂で断念する人が多かった。そこで、市はこのような噂を否定し、裸一貫であっても南米に行けると国・県からの経費支援を紹介している(『新編史料編六』 七社会 史料5)。また、市は現地での自営開拓や雇用農となって移住する方法などを市民に紹介していた(『広報はままつ』昭和三十六年九月五日号)。浜松市では昭和二十七年から同三十七年度までに七十八人が移住した。しかし、高度経済成長で労働力不足が言われ出した昭和三十六年度を境に移住希望者は急速に減少している。昭和三十八年度に浜松市は国の集団移住促進都市の指定を受け、同年の『広報はままつ』八月二十日号に「未来を海外に求めて」と題して海外移住を奨励したが、この号以降は海外移住への奨励記事は姿を消した。なお、昭和四十五年頃には高度成長で日本の生活水準が上がり、帰国する人々が出始めた。政府が移住者送出業務を正式にやめたのは平成六年であった。政府が支援して送り出した戦後移住者総数は七万三千三十五人(うち、中南米へは六万七千三十七人)であった。