【人手不足】
浜松公共職業安定所管内の求人と就職状況の推移を『浜松市統計書』で見ると、昭和三十七年の充足率(就職/求人)が十一・一%であったものが、昭和四十五年には二・九%となっている。経済成長に伴う製造業の発展がすさまじく、深刻な人手不足をもたらしていたことがうかがえる。例えば、昭和三十四年の浜松公共職業安定所管内(浜松市・浜名郡)の求人数は一万六千人であったが、この求人数は静岡職安の約三倍、清水職安の約四・六倍、沼津職安の約五・三倍、また、香川県の約二倍、福井県や茨城県とほぼ同数であり、いかに旺盛であったかがうかがえる(『静岡新聞』昭和三十五年八月十四日付)。
そこで、各業界では労働力確保に躍起となっていた。この労働力確保のための方策はより遠方への求人開拓や求職者の要望に沿う形で展開されることになる。
昭和三十年代初頭までの浜松市域の工業の主体は、戦後復興をいち早く遂げた織物業であり、織物の製品出荷額は一位であった。遠州織物は、国内需要を満たすだけでなく、海外にも大いに輸出され多くの外貨を稼いだ。これらの外貨によって鉄鉱石等の重工業の原料が輸入され、戦後の技術革新の一翼を担うオートバイ等の輸送用機械器具産業が高度成長期に勃興する基盤の準備の役割も担った。この織物業の従業員には女工さんが多く、彼女らは主に近隣の農山村地帯から雇い入れ、なお足りない場合は東北や九州から職業安定所などを通して採用していた。これは戦前に行われていた方式を受け継いだものであった。
ところが、織物などの繊維工業の製品出荷額は昭和三十五年にはオートバイなどの輸送用機械器具や楽器に抜かれた。昭和三十三年に比べて、同三十九年には輸送用機械器具の出荷額は約九・一倍に、楽器の出荷額は約六・六倍になった。しかし、織物の出荷額は約七割七分となり、横ばいまたはやや減少していった。出荷額の規模では、綿・スフ織物に対し軽自動車は約三・九倍、楽器は約三・五倍であった。オートバイや軽自動車などの輸送用機械器具産業と楽器産業は高度経済成長期に躍進していった。
輸送用機械器具や楽器の企業ではまず、地元に居住する若者を優先的に雇用した。親元から通勤する従業員は身元保証が確実であり、生活面でも親に監督させることが出来ると判断され、しかも寮や寄宿舎を建設する必要もなく、労務経費が軽減できたからである。
【進路状況 進学者 就職者】
市内の中学生の進路状況を見ると、昭和三十三年までは就職する者が多かったが同三十四年に逆転、それが同四十四年度には進学者が八十二%を突破、同五十一年度には九十%に達し、就職者は三・七%に激減した(第三節 教育 表2―11参照)。そこで、市内の各事業所は雇用対象の中軸を高卒者に移行することになった。
【金の卵】
昭和三十年代、中卒者は「金の卵」と言われ、事業者にとっては比較的低賃金で雇用できることから魅力的な存在であった。一方、中卒者や高卒者にとっても輸送用機械器具や楽器関係の企業は高度経済成長の波に乗って年々事業規模と収益を拡大させ、賃金水準も確実に上昇させていたので魅力的であった。このようなことから、これらの企業は中卒・高卒をはじめ大卒でも比較的優秀な地元の新規卒業生を採用することが出来た。
【平均給与】
昭和三十八年の浜松での産業別一カ月の平均給与は、製造業では男子が三万四千円程に対し、女子は一万五千円程であり、半額以下であった(『市勢要覧』昭和三十九年版)。ただ、この数字は当時女子の多くが結婚で退職する傾向があり、若年労働者が多く、一方、男子は定年まで勤めるという者が多かったため、単純に比較することは出来ないが、男子に比べてやや低い傾向にあった。この製造業で中卒の女子従業員を多く採用していたのが中小の織物工場であった。昭和三十九年末の調査(『市勢要覧』昭和四十年版)では、繊維工業は市内の全工業と比べた場合、製品出荷額は十八・一%であったが、従業員数は二十八・三%であった。しかも、繊維工業では、従業員九人以下の事業所(小工場)の割合は、繊維工業全事業所に対しての事業所数では七十七・八%、従業者数では二十四・九%、製造品出荷額では十一・三%であった。繊維工業では、従業員九人以下の工場の平均従業員数は三・七人であり、従業員十人以上の工場であっても平均従業員数は三十九人であり、全体として零細な中小企業であった。福利厚生施設の整備も遅れていた。
昭和三十六年の段階で高校進学率が五十%を超えていた浜松地域では、織物工場の女子従業員の確保は、深刻な問題となっていった。