【集団就職】
浜松地方の織物業にとって、戦前に着手していた東北地方からの労働者の受け入れを再開させ、さらに九州地方からも受け入れる方策が進められた。約千百の中小の工場からなる遠州織物工業協同組合として全国各地、特に東北地方と九州地方の公共職業安定所に集団求人の紹介を依頼することになった。昭和二十九年からこのような集団就職が開始された。昭和三十五年の集団就職は九州や東北などの県外からは八百六十九人、県内の細江、磐田、天竜、掛川などから六百人、合計千四百余人であった(『静岡新聞』昭和三十五年三月五日付)。
【女子工員 時間外労働】
これらの集団就職者の待遇は厳しいものがあった。浜松公共職業安定所管内の昭和三十四年の中学卒業者の初任給は、通勤者では男子が四千四百円、女子が四千二百八十円、住み込み者では、男子が千八百七十円、女子が二千二百円であり、住み込み者のほうが二千円から二千五百円ほど低かった(『静岡新聞』昭和三十四年五月十九日付)。この住み込み者の女子工員の多くが集団就職者と考えられる。彼女らの賃金は光熱費などを含む寮費や食費を差し引かれたものであった。昭和三十三年頃の食事は沢庵と味噌汁だけという粗食でとても体が持たないという投書が浜松公共職業安定所に頻々と舞い込んでいたが、同三十五年中頃にはほとんどなくなったという(『静岡新聞』昭和三十五年六月二十八日付)。昭和初年頃から遠州の織物業では二交代制で操業し、昭和三十年代後半でも遅番は十時四十五分までの勤務であった(『静岡新聞』昭和三十六年九月七日付)が、多くの工場では人手不足に苦しんでいたので、労働力確保をするためこの勤務時間を守っていた。しかし、昭和四十年に入って浜松労働基準監督署が管内の約三百軒の織物工場について抜き打ち検査をしたところ、数工場で女子年少者の時間外労働が行われていたとして摘発、指導を行った(『静岡新聞』昭和四十年八月二十四日付)。
【週休制】
しかし、高度成長期の好況局面が続くことにより、昭和三十五年には中卒の住み込み者の月給は手取りで六千円に跳ね上がった。また、日曜日が休日となる週休制がほとんどの工場で実施されるようになった(『静岡新聞』昭和三十五年六月二十八日付)。なお、昭和四十年には中卒女子の初任給は遠州地方九十事業所の平均が一万三千三百十一円(『静岡新聞』昭和四十年六月二十二日付)、昭和四十六年三月の浜松公共職業安定所管内の中卒予定者の女子の初任給の平均は二万五千三百八十円となった。この初任給の高騰は、中卒就職希望者の争奪戦の結果で、人件費が全収入の四割以上になる事業所も出てくるなど経営にも影響が出始めた。
【季節労務者】
昭和四十六年三月の集団就職で浜松に来たのは八百六十七人、そのうちの約九割が繊維業界、残りはオートバイ関係の企業への就職であった。また、これまでの専用列車は姿を消し、新幹線を利用するようになったが、約半数は高速道路を使って自家用車やマイクロバスで来るようになった。昭和四十八年の県外から浜松地方への集団就職者は六百九十四人であった。翌年からは集団就職の記事が見られなくなったので、昭和四十八年がこの最後ではなかったかと思われる。昭和二十九年以来約二十年、通算二万人の中卒者(一部は高卒者、男子も含む)を浜松地方に〝移住〟させたことになる。この頃、事業者は賃上げや寄宿舎を鉄筋コンクリート建てにしたり、様々な福利厚生事業を実施したが、中卒者が全国的に減り、浜松市でも昭和五十一年度に高校進学率が九十%を超え、事業者は求人募集のターゲットを一般求人や内職、パート、さらに高卒者にシフトしていった。また、東北や北海道の農閑期に焦点を当てた季節労務者を募集する試みも行われた(『静岡新聞』昭和四十五年十一月九日付)。
なお、一月と七月の十六日に商家などの奉公人が帰郷する藪入りの習慣は明治期以降も残存し、戦前まで残っていたが、これも戦後の集団就職の時代を境に廃れていった。