【内職】
昭和三十年代中頃、家庭の三十代四十代の主婦を中心とした内職が増え、希望者の便宜を図るため県内職公共職業補導浜松連絡所が浜松労政事務所に設置され、内職相談員が置かれた(『静岡新聞』昭和三十七年七月五日付)。内職の目的は余暇を利用しての家計補助が多く、仕事は袋はりやバック編み、時計バンド等であった。
【パートタイマー】
しかし、昭和四十年代になるとパートタイマーが盛んになる。主婦にとっては一日働いて百五十円くらいの内職よりも時間給八十~九十円で一日五~六時間をパートで働いた方が報酬が高く、求人側としても人手不足対策として人件費が格安な働く婦人の職場定着は魅力であった。このような中、助信町の袴田織物は工場内の倉庫跡に託児所を開設し安心して主婦が働けるようにしていた。また、人手不足に悩んでいた高丘町の増田製作所は会議室を保育園に衣替えし宣伝に努めたら、たちまち六十人の主婦が集まり、ガス溶接など男子同様の仕事もしているという(『静岡新聞』昭和四十二年十月十三日付、同四十三年一月十三日付、『新編史料編六』 七社会 史料63)。これとは逆に、保育所内に内職施設を設けたのが遠州浜団地の浜松児童福祉園である(『静岡新聞』昭和四十四年四月二十六日付)。これらの動きは子育てをしながら働きたい主婦にとって福音であった。
【炭鉱離職者】
日本の石炭価格がなかなか安くならない中、昭和三十三年から三十四年にかけて、原油価格の下落が進み、電力産業をはじめ大口の需要者は燃料を石炭から石油に変えていこうとするエネルギー革命と言われた動きが顕著となった。三井三池の炭鉱をはじめとした九州や北海道など全国の炭鉱労働者による人員整理と合理化反対の闘争がその頃盛んに行われた。しかし、一部の炭鉱は組合の分裂などを経て闘争は敗北に終わり、昭和三十年代後半には全国の大部分の炭鉱は経営が次第に成り立たなくなり、失業した炭鉱労働者の再就職が国の重要課題となった。昭和三十四年に炭鉱離職者援護会ができ、昭和三十六年に雇用促進事業団法に基づき労働省が所管する雇用促進事業団に炭鉱離職者対策を引き継いだ。具体的には、炭鉱の閉山により移転を余儀なくされた労働者に当面の居住地を提供したり、再就職のための職業訓練や就職援助のための仕事をしたりしていた。浜松市もその候補地となり、市外からの移住就職者のための住宅が昭和四十年度から四十二年度にかけて神田町(百六十戸)・上島町(八十戸)・老間町(二百戸)計四百四十戸が建てられた(『新編史料編六』 七社会 史料58、『広報はままつ』昭和四十二年二月五日号、十一月五日号)。その後、篠原町にも建てられた。これらの住宅は鉄筋コンクリートの住宅で、家賃は約四千円と低廉であったが、各戸の居室は二間しかなかった。なお、これらの移住者は人手不足に悩んでいた浜松市域の事業者にとっては朗報であった。