[勤労青少年のための福利厚生施設]

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【福利厚生施設 浜松南部織物会館】
 毎年、市外や県外からやってくる千数百人余の集団就職者の多くは小規模な織物工場で働いていた。しかし、それぞれの企業独自での福利厚生施設の立ち上げは容易ではなかった。そこで、昭和三十六年、南部織物工業協同組合に参加する九十工場の従業員三千人が利用できる鉄筋コンクリート二階建ての浜松南部織物会館が建設された。ここには安価な衣類や化粧品の売店や理容室・パーマ室、二部交替制の女子工員のための和洋裁教室や遊技場等があり、空き地ではテニスやバレーボールが出来た。それ以前の同三十三年から組合では共同炊事場を持ち、二千人分の給食も実施していた(『新編史料編六』 七社会 史料55)。求人難に苦しむ業界としては待遇改善を目に見える形にして示したものであった。このような取り組みは市や県も行っていた。
 
【勤労青少年ホーム】
 浜松市域の中小企業で働く青少年の健全な育成と福祉の増進を目的に、市は産業界の協力を得て、昭和三十九年、亀山町の鹿谷公園内に勤労青少年ホームを建設した。全国でも十一番目であった。福利厚生施設が乏しい中小企業に働く若人たちの憩いの場となるよう、娯楽談話室、ステレオがある音楽室、茶道・華道の講習設備付きの和室、卓球・バトミントン・バレーボールが楽しめる体育室兼ホール、料理講習室や集会室等が用意されていた(『広報はままつ』昭和三十八年十二月二十日号、三十九年四月二十日号、六月五日号)。
 
【浜松勤労青少年寮】
 このような福利厚生施設の建設とともに、安い住宅の提供が中小企業に働く勤労青少年には必要と考えられ、県は昭和四十三年六月上島町に浜松勤労青少年寮を完成させた。前年の富士市に次ぎ県下二番目の青少年寮であった。収容定員百名で入居費は格安の二千円。中学か高校の新規の学卒者で通勤が不可能な男子が入寮できた。勉強室、娯楽室や図書室等が備えられていた。当時、年間約三百人の新卒者が高い家賃の下宿生活をしており、非行化の防止も視野に入れた福利厚生施設であった。
 ところが、この勤労青少年寮は翌年の一月になっても六割以上が開設以来空室であった。これは、市内の中小企業が採用した従業員をそれぞれが造った寄宿舎に住まわせるところが多かったからである(『静岡新聞』昭和四十四年一月十八日付)。昭和三十年代後半には国鉄浜松工場や遠州鉄道、浜松市営バスのような比較的大きな事業所はもちろん、海老塚町の伊熊織布や聴濤館のような旅館でも従業員のための鉄筋コンクリート建ての大きなアパートを建設していた。また、入野町のような中小の織物業者がひしめく機業地であってもそれぞれの事業所ごとの木造の寮は鉄筋コンクリート造りのものに建て替えられていった。
 
【離職率】
 昭和三十年代や四十年代の中卒・高卒者は雇用者にとっては貴重な労働力であったが、高い離職率が問題であった。昭和四十五年の浜松公共職業安定所の調査では、中卒者の約四十六%が就職して三年後には離職していた。高卒者も同様の数値であった。離職理由は仕事への不適応や技能・技術の習得の問題等があった(『新編史料編六』 七社会 史料64)。そこで待遇改善を図るだけでなく、技能水準を引き上げるために職業訓練校が大きな役割を果たした。なお、この職業訓練校については第三節教育 第五項を参照されたい。
 一方、中卒で主に繊維産業で働く女子従業員が働きながら高卒の資格を取ることが出来る昼間定時制の高校が浜松市と磐田市、浜名郡新居町に出来たが、これについても第三節教育 第二項を参照されたい。