[人権問題と労働運動]

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【深夜業 全繊同盟】
 遠州地方の中小企業にとって最大の人権問題は、零細な織物工場での女子・年少者への深夜業という労働基準法違反であった。昭和三十四年にも二人の工員が逃げ出す問題が起こり、労基署の摘発も翌年まで続いていた。この摘発運動は、労基署だけでなく、全繊同盟でも昭和三十二年に行っている。全繊同盟は昭和二十九年の近江絹糸紡績の人権争議以来、待遇改善と賃上げを要求、特に綿紡大企業での労働運動が活発になった。昭和三十一年の遠労を中心としたメーデー(鴨江観音境内)には全繊同盟傘下の労組も参加、多くの女子工員の参加で賑やかな大会となった。また、昭和三十五年には全繊同盟は経営者団体である遠州織物工業協同組合と労組結成で問題が生じないように懇談し承諾を得た(『静岡新聞』昭和三十五年九月十六日付)後、翌年一月には県支部が各事業場前で広報車から組合結成の呼び掛けをしており、中小の織物工場でも組織化が徐々に進んでいった(表2―43参照)。
 
【浜松衛生社】
 市内の清掃業者では大手の浜松衛生社は、勤務時間が一定せず、朝七時半に出勤し、夜は六~八時以降も労働させられ、時間外手当ても付かないという過酷な労働環境にあった。従業員が殴られたり、し尿溜めに蹴落とされたりすることもまれではなかった。そこで、従業員六十八人中、四十一人が昭和三十四年十月五日、浜松衛生社労組を結成し、翌日遠労に加盟した。労組は就業規則の作成と賃金体系の明示を要求したが、会社側から労組役員の降格や退職の勧告、減給の処分を受けた。遠労役員などを交えての団体交渉となったが、会社側はこの場に約百人の暴力団を動員し組合解散を迫った。この事態に、組合は同年十月二十九日に地労委に提訴した。地労委はこれを受けて斡旋を開始、同十一月十六日に、会社は労働組合を認めること、組合役員の身分や処遇は元に戻すこと、就業規則を早急に監督官庁に出すこと、組合は会社と協力して企業の発展に努力することなどを決めた協定書を取り交わして争議は四十五日ぶりに解決をみた(『静岡新聞』昭和三十四年十月三十一日付、『遠労のあゆみ』)。昭和三十一年十二月の浜松委托運送従業員組合、三十五年五月の日本梱包運輸労組などでも、労組結成直後に会社側は組合役員を解雇したが、争議への遠労などの支援もあって処分は撤回された。
 昭和三十年代の中頃になると、労働時間の短縮(時短)は多くの事業場の労使間の課題となってきた。浜松地区のタクシー会社では一日の十七時間働きづめ、一カ月の拘束勤務時間は三百五十時間以上で四百時間を超える労働を強いられるケースもあった。休日も月二回取れれば良い方で、有給休暇などは一切なく、苛酷な労働環境にあった(『静岡新聞』昭和三十五年八月二十一日付、『静岡県労働運動史』)。そこで、少ない固定給を補うため、少しでも歩合給を稼ぐために速度制限無視、急停車、急発進、信号無視、無理な追い越しなどを行う無謀運転を行うタクシーが増えた。これは「神風タクシー」と呼ばれ、全国的に社会問題にもなっていった。昭和三十二年頃、浜松市内にはタクシー会社が六社あったが、組合が組織されていたのは二社に過ぎなかった。このうち、浜松タクシー労組の会合や集会は全員の勤務が終了する二十四時以降に行われていた。この年、組合は経営側の圧迫を押しのけて初めて日中に定期大会を開くことに成功した。同三十五年、安保闘争の高揚という社会的背景の下、遠州タクシー・中央タクシー・富士タクシーで労組が結成され、光タクシーと浜松交通タクシーで労組が再建され、市内の全六社で労組が結成された。同年これらの組合は浜松地区ハイタク労働組合共闘会議を結成した。同共闘会議は各社に対して労働条件の改善に取り組むように求めた。交渉の結果、各社とも、二車三人制による四勤二休の基本ダイヤが確立され、月間拘束時間は三百十時間に規制、休日も月五日と明確化され、有給休暇の完全実施などおおむね組合案が通った。これらの統一労働条件基準設定は、全県さらに全国に大きな影響を与えた(『静岡県労働運動史』)。この共闘会議は八月に各企業組合を解消させ、地域単一の浜松地区タクシー労組を結成した。翌年一月には市外のタクシー会社にも組織が広がっていったことを契機に、静岡県西部地区タクシー労組と改名した。
 
【タクシー会社 西部地区タクシー労組】
 西部地区タクシー労組は、その後、毎年の春闘で基本給のベースアップや歩合給の廃止と完全月給制の実施等を求めて半日や二十四時間ストを交えた時限ストを統一ストとして敢行し、大井川以西の全タクシーが止まる事態が何度かあった。これに対して一部の経営者は暴力団を介入させたり、車両の持ち出しによって対抗した。また、組合の方針を闘争至上主義と批判し、第二組合作りも行われた。こうした中、遠州タクシーが昭和三十六年に遠鉄グループの傘下に入ったことから、県西部地区タクシー労組の一角を成していた遠州タクシーは同三十八年に脱退し、遠鉄の企業内組合に合流することになり、同四十年に遠鉄タクシーと改名した(『遠州鉄道四十年史』)。会社側は賃金を含め一時金を大幅に引き上げ、また、福利厚生事業を充実させて要員を確保し、急ピッチで増車し、企業間競争が激化していった。
 昭和三十八年、富士タクシーに第二組合ができ、西部地区タクシー労組に動揺が生じ、かつて十五支部六百人を超える組織であったが、七支部二百人余りに減少していった。昭和三十九年、富士タクシー支部(十五人)は西部地区タクシー労組の統一労働協約の適用と差別撤廃を求め無期限ストで闘った。西部地区タクシー労組と遠労などの大衆的な支援を得て、暴力団などの介入をはねのけて、十九日間のストを闘い抜き三月初め一応勝利したものの、会社と第二組合(七十三人)による執拗(しつよう)な圧力により支部は解散に追い込まれた。同年十二月、県下で個人タクシーの営業が開始され、タクシー業界の競争が激しくなり、昭和四十五年八月、地域単一組織としての西部地区タクシー労組は解散した。