平和運動

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【平和運動】
 遠労を中心にして多くの労働組合は平和運動にも大きく関わっていった。昭和三十年八月から九月にかけて遠労は基地拡張問題で市長と会見、反対を申し入れた。また、昭和三十二年十二月には航空自衛隊の実弾射撃場を遠州灘に移転することに反対を決議している。同三十七年には騒音のひどいF104戦闘機の持ち込みに反対、浜松基地の実態調査をするとともに、ロッキード(F104)反対浜松市民大会を開いた。昭和四十二年には松菱デパートで開催予定の自衛隊展に反対を申し入れをしたり、同四十三年から四十五年にかけて、遠労の上部団体の県評(静岡県労働組合評議会)などが主催してミサイル・ナイキJの持ち込みに反対する市民集会が行われた。
 
【原水爆禁止運動】
 また、原水爆禁止運動は昭和三十年代前半には国民運動として次第に定着していき、遠州地方ではその中心的な役割は、遠労をはじめとした労組が担っていた。講演会や署名運動という取り組みやすい活動スタイル、さらに全国や全県の地域リレーによる行進という新たな運動形態を作っていった。これらの運動形態は安保闘争や春闘でも使われた。しかし、昭和三十六年九月のソ連の核実験再開の評価をめぐって社会党と共産党のイデオロギー対立に巻き込まれ、原水爆禁止日本協議会(日本原水協)は分裂し、共産党系の日本原水協、社会党・総評系の原水爆禁止日本国民会議(原水禁)に分裂していった。「いかなる国の核実験にも反対する」という社会党・総評の考え方に全国地域婦人団体連絡協議会・日本青年団協議会(日青協)も同調し、昭和三十九年に全地婦連と日青協は原水協を脱退した。なお、遠労が関わった地域の運動には、昭和三十年のオートレース場設置反対運動が挙げられる。