[老人福祉施設の開設]

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【老人福祉法】
 この時期は、農村部から都市部への人口の流出や核家族化が進んだこと、さらに平均寿命が延びたことにより、重要な福祉課題として老人福祉が挙げられるようになっていった。このような環境の中で、昭和三十八年に老人福祉法が制定された。
 
【老人福祉施設】
 戦前に救護法によって六十五歳以上の老衰者が収容される施設として設けられていた養老院が、戦後は生活保護法による六種の施設(養老、救護、更生、医療保護、授産、宿所提供)の一つとしての養老施設となった。これは要保護で老衰によって独立して日常生活が営めない老人の収容の場と見なされていた。老人福祉法の制定により、核家族のため家庭生活に困難を抱える場合や高齢による虚弱など様々な困難がある老人に生活の場を提供する老人福祉施設(各種の老人ホーム)の設置に大きく発想を転換していった。同法では養護老人ホーム・特別養護老人ホーム・軽費老人ホーム・老人福祉センターの四種類の老人福祉施設と在宅福祉サービスを共に進めていくことになった。
 
【養護老人ホーム】
 浜松市域では戦後、市が設置し、浜松仏教養護院が経営する養老施設の光音寮が鴨江町にあったが、老人福祉法の施行により光音寮は養護老人ホームとなった。本人の世帯が生活保護を受けていたり、心身の障害によって日常生活が困難であって世話してくれる人がいなかったり、身の回りのことは自分で出来るが家族との同居が困難な場合や、六十五歳以上の者を対象とする規定になった。
 
【特別養護老人ホーム】
 昭和三十五年、聖隸保養園を母体として結成された社会福祉法人十字の園は、生活保護法に基づく保護施設として要介護老人のための十字の園老人ホーム(定員三十名)を引佐郡細江町に同三十六年に開設した。その資金は、昭和二十八年に聖隷保養園(後の聖隷福祉事業団)が西ドイツから招いたハニ・ウオルフをはじめとした五人のキリスト教婦人奉仕団員(ディアコニッセ)が日本の病弱で身寄りもない老人の窮状を救おうと故国で集めた六百万円を浜松に持ち帰ったものであった(『静岡新聞』昭和三十五年十二月二十四日付)。昭和三十八年老人福祉法の制定により、十字の園は、いわゆる寝たきりや認知症を患っている生活介護が必要な老人などを対象とした日本初の特別養護老人ホーム(昭和三十九年認可)となった。その後、各地に十字の園が出来たため、浜松のそれは昭和四十六年に浜松十字の園と改称、同四十九年には増設工事が落成し、定員は百二十名となった。
 
【軽費老人ホーム】
 昭和三十年代の後半になると日本人の平均寿命が延びて老後の生活をどう過ごすかが問題となってきた。軽費老人ホームは身寄りのない者または家庭の事情等で家族との同居が困難な者、家庭や住宅の事情で居宅での生活が困難な六十五歳以上の健康な老人を対象として、給食その他の日常生活で必要な便宜を提供する施設として昭和三十八年に老人福祉法で定められた。昭和三十九年十一月五日、浜松市は老人福祉対策の一つとして公立としては全国で三番目となる軽費老人ホーム・佐鳴荘を開所した。同荘は佐鳴湖畔の景色の良い所にでき、単身者四十人、夫婦者五組、計五十人が収容できる施設であった。入所者の納める一カ月の利用料は、単身者は九千五百円、夫婦は一人につき九千二百五十円(所得により減額あり)であった(『広報はままつ』昭和三十九年十一月二十日号、同四十年六月五日号)。しかし、開所から一カ月たっても入所者は六人であった。入所者が少ない理由として、老人の面倒は家族がするものという世間体が強かったことと、軽費といっても費用が高過ぎるという声があった。そこで、市は入所基準を市内から全県下に、六十歳以上を五十五歳(定年)以上に、それぞれ緩和した。また、娯楽室も増設した(『静岡新聞』昭和三十九年十二月十三日付、同四十年六月十四日付)。その後、諸物価上昇の中でも料金据え置きをした効果もあって、昭和四十二年度には五十人近くの入所者となり、利用状況が改善されていった(『静岡新聞』昭和四十二年九月十一日付)。同荘は市の直営であったが、昭和五十年代後半に運営主体が社会福祉法人の三幸会となった。
 
【老人福祉センター】
 昭和三十年代後半から、核家族化により家族関係が希薄になり、老人の孤独化が目立ってきた。老人に合った人間関係を広げ維持していく役割を果たしているのが老人クラブであり、老人クラブの活動の援助を行っているのが老人福祉センターである。同センターは、無料または低額な料金で、老人に関する各種の相談に応ずるとともに、老人に対して、健康の増進、教養の向上およびレクリエーションのための便宜を総合的に供与することを目的とした施設である。市内では昭和四十六年六月十二日に和地町に湖東荘がオープンした。
 
【老人保養所】
 静岡県は、景勝地・温泉地などの休養地に、老人に低額な料金で安らぎと憩いをもたらす宿泊施設として、県下三カ所に老人保養所を設置した。西部地区では佐鳴湖畔の景勝地に西遠老人保養所西遠荘(入野町)を昭和四十年に開設した。運営は県社会福祉協議会が行っていた。当初は七十名定員(宿泊)であったが、利用者が増加する中で、四十七年に別館が増築され百名定員になり、四十八年と五十七年には、それぞれ浴室を増築し設備を充実していった。なお、利用者には静かで眺望も良く、交通の便も良く、低料金であったため若者の利用者も多くなり「守られぬ〝老人優先〟」と『静岡新聞』昭和四十二年八月十日付の記事に書かれたような問題点が指摘されていた。