[敬老の日と老人クラブ]

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【としよりの日 敬老の日】
 昭和二十二年に兵庫県の野間谷村が農閑期の九月十五日を「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と「としよりの日」を始め、昭和二十六年、中央社会福祉協議会の提唱で九月十五日をとしよりの日とし、同二十一日までの一週間を運動週間としたことで全国的に行われるようになった。『広報はままつ』昭和三十二年九月五日号では、「としよりをいたわりましょう」という見出しの記事で社会福祉協議会の四つの方針を紹介している。それは、①としよりを敬愛、援護して老齢年金制度の確立を促進し、としよりに社会的役割を与える、②としよりの福祉を向上し、老人クラブの結成を促す、③家庭ではとしよりを敬愛し、常に明るい生活を送れるようにする、④としよりには若い世代と協調し、老後の生活設計を考えるようにさせるであった。老人が主にいたわりの対象と見なされがちな時代であったが、昭和三十八年の老人福祉法制定により老人の日として定められ、さらに昭和四十一年には敬老の日と改められ国民の祝日となった。同法で老人クラブへの助成が図られ、老人が自らの力で老後の生活を健全で豊かにする活動が推進されるようになった。その中心は老人クラブ活動の推進であった。
 
【老人クラブ】
 県内最初の老人クラブは昭和二十三年に今の南伊豆町で結成された。市内では昭和三十一年に高林町で結成され、孤独に陥りがちな老人の親睦団体として自主的に作られていった(『新編史料編六』 七社会 史料38)。老人クラブの数は、昭和三十七年には市内で八十四あったものが二年後の三十九年には百七十と倍増し(『広報はままつ』昭和三十七年九月五日号、同三十九年九月五日号)、昭和五十六年には三百十二になっている。老人クラブの活動内容は、世間話や昔話をしたり、時事問題や健康についての講話を聴いたり、映画や義太夫などの娯楽や旅行をし老後を愉快に過ごすこと、また、神社の境内や児童遊園地の清掃や学校で使う雑巾作り等であった(前掲『広報はままつ』)。これらの老人クラブの活動には、湖東荘などの老人福祉センターや西遠荘などの老人保養施設が活用されていった。